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書評:ゴーリキイ『どん底』

ロシア文学に見る19世紀ロシアの貧民窟の姿とは?

今回ご紹介するのは、ロシア文学よりゴーリキイ『どん底』。

ロシアの貧民窟における退廃的な人々の喧騒を描いた作品である。

極限的な貧困と絶望の中に生きゆく人間が写実的に描写された名作だ。フランス文学で言えば、ゾラが描いた世界のロシア版というイメージで私は捉えている。

本作で表現されるのは、退廃の中にあっても欲望や夢、妄想、希望、そうした様々な人間の本来的な感情が渦巻く様だ。

絶望の中にだって喜怒哀楽がある。
極限的な状況においてなお、人間は悩み、迷い、苦しむ。

人間はある意味では、それほど簡単に絶望しきってしまうようにはできていないのだと思わせられるものがある。

ただ実を言うと、私は本作に少し違和感を感じた部分があった。それは、本作には「子供」が全く登場しないという点だ。この点は、ゾラの作品との大きな相違となっているように思われる。

これが意図されたものかどうか、それはわからない。もしもこの作品に「子供」が登場したのならば、もはや見るに耐えないものになったかもしれないが、作品の深みはより一層増してのではないかと思えてならない。

この読後感は、私の少年期と関係があるのかもしれない。実はこうした庶民の日常(特に「喧騒」)を描いた作品を読むと、少し変な懐かしさを覚えてしまう自分がいるのだ。

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さて、ここからは雑談。

私の少年期には、いくつか「喧騒」と言うフレーズを連想させる思い出があり、そのためか、「庶民の街の喧騒に子供は付き物」という個人的な固定観念があるように自覚している。

私の実家は大阪の生野区というところで、父は自営で花屋を営んでいる。店頭での小売は行わず、盛花の配達を専門に取り扱っている。

家族商売みたいなものなので、子供の頃から父の仕事を手伝うのが当たり前だったのだが、配達の同行が一番苦手なお手伝いだった。配達とは新規オープンのお店などに盛花を届け、お店の入り口などに盛花を並べる作業のことだ。

お店の前に並んだ盛花について、大阪には独特の文化がある。
大阪の方はご存知かもしれないが、何故か道行く人が好きなだけ花を抜いて持って帰って良い、という風習があるのだ。普通に考えたら泥棒なのに、商慣習なのだろう。

盛花はお店の開店時間より早く並べるのだが、大阪のおばちゃん達は並べた瞬間からお花を抜きに群がってくる。しかし私ども花屋の側にとっては、盛花は守るべき商品である。せめて初日の開店の瞬間くらいは盛花が満開の状態で迎えないと、お店の方に申し訳ないのだ。

そこで盛花の防人、ガーディアンとして大阪のおばちゃん達と攻防する役目を命じられるのが、少年KING王の常だった。多分小学1年生くらいからずっとやっていたと思う。

バーゲンセールで獲物を狙うおばちゃんさながらに、お花を押し合いへし合い物色するおばさん達に立ち向かって、少年KING王は、

「お店は◯時オープンなので、それまではお花を持って行かないでください!」

と大声を張りながら、盛花とおばさん達の隙間に身体をねじ込んでディフェンス(スクリーンアウト)するのだ。怪我をするような大層な肉弾戦では決してないが、「ケチ〜!」とか言われて軽くハートに傷を負ったりすることしばしばであった。

花屋のお手伝いでの思い出や、生野区という育った街に関する「喧騒」を思い出すエピソードはまだまだあるので、また別の記事でも小出しに紹介していきたいと思う。

読了難易度:★☆☆☆☆
貧民窟リアリティ度:★★★☆☆(←描写はリアルだが子供が出ない点で減点)
ゾラなどとの比較文学として面白い度:★★★★☆
トータルオススメ度:★★★☆☆

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