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高橋源一郎|古典と響き合う「方丈記」翻訳力

「モバイル・ハウス・ダイアリーズ」と書かれたら、チェ・ゲバラの日記『モーターサイクル・ダイアリーズ 』を思い浮かべてしまい、どこか外国の日記文学かと思ってしまう。しかし、これは高橋源一郎が『方丈記』に付した読み仮名だ。

国語の授業で“方丈記”という文字を見て以来、ほとんどの人は“ほうじょうき”とひとつづきに暗記するだろう。その意味を考えようとはなかなかしない。“つれづれぐさ”や“げんじものがたり”や“こきんわかしゅう”と同じように音が耳に残る。まさかそれが「モバイルハウス」の「ダイヤリー」だったとは思ってもいなかった。辞書をひいてみると「方丈」とは「1丈 (約3m) 四方の部屋」のことを言うらしい。「モバイルハウス」という意味が直訳ではないが、実際に『方丈記』を読んでみると、その意味がわかってくる。

高橋源一郎は、池澤夏樹が責任編集している「日本文学全集」のなかで、この『方丈記』を「モバイル・ハウス・ダイヤリーズ」の訳している。池澤夏樹はこの全集のなかで、積極的に現代作家に古典を翻訳させている。自身も「古事記」の翻訳を担当し、酒井順子が『枕草子』、いとうせいこうが『曽根崎心中』、円城塔が『雨月物語』という風に、古典作品と訳者のマッチングが絶妙だ。

なぜこのようなことをしているのかを、池澤夏樹自身はこう言っている。

「翻訳で重要なのは文体です。文体あっての文学ですからね。だから今回は文体のプロである作家さんたちに頼もうと思いました。多少の訳の間違いはこちらでなおすことができる。それよりも、作家それぞれが苦労して磨いてきた文体の匂いを読者に感じてほしかったんです」

ただ単に直訳するのではなく「文体」を導入する。訳者が身体化し、現代に合わせて当時の思いを届ける。そういう思いで編集されている。

さらに『方丈記』についてはこう言っている。

「高橋源一郎さんは『方丈記』を『モバイル・ハウス・ダイアリーズ』に改題して、訳も現代風に大胆にアレンジしています。あれはふざけているようだけれど、ものすごい工夫で、「アルマゲドン」という章では、東日本大震災と重ねて読むことができる。『方丈記』で書かれた内容が、今の時代と響きあって、読者は惹きつけられるんです。間口を広く、敷居を低くして「古典」の世界によび込んでしまえば、あとは面白いことが起きる。それで原典も読んでみようと思ってくれる読者がでてくれば、それに越したことはないですよね。」

高橋源一郎は『方丈記』の各章タイトルを、このように訳している。

1.リバー・ランズ・スルー・イット(ゆく河)
2.バッグドラフト(安元の大火)
3.ツイスター(治承の辻風)
4.メトロポリス(都遷り)
5.ハングリー?(養和の飢饉)
6.アルマゲドン(元暦の大地震)
7.マインド・ゲーム(世の中のありにくさ)
8.マイ・ウェイ(鴨川のほとりから大原へ)
9.メイキング・オブ・モバイル・ハウス(方丈の庵)
10.ノスタルジア(日野山の奥)
11.イントゥ・ザ・ワイルド(山中の景気)
12.アー・ユー・ロンサム・トゥナイト?(閑居の気味)
13.オール・ザット・ナムアミダブツ(一期の月影)

(※日本語は補足)

このカタカナを読み進めると、この日記が災害文学とも呼ばれる理由に気づく。バックドラフト、ツイスター、ハングリー?、アルマゲドン、と災害が続いているからだ。災害ではないが、「メトロポリス」で描かれている遷都も、一般市民にとっては突然やってくる人為的な"災害"に近い。いままで都会だった街が突如として、"地方"になるからだ。たとえば、現在、京都に首都が移転したならば、東京は結構遠めな"地方"になる。仕事も住まいも子育ても大きく変えざるを得なくなるだろう。

本文はこう書かれている。

「突然、『首都移転』が発表されたのだ。これには、みんな、びっくりした。だいたい、わたしたちが住んでいたキョウトはサガ天皇の時代に首都に決まったのだ。それから400年近くたって、それが当たり前になっていた。なのに、はっきりとした説明もなく、いきなり『首都を移転しますよ!』だ。それでは、だれだって不安にもなるし、文句のひとつもいいたくなる」

これほどまでに遷都は青天の霹靂だったのだ。

「ハルマゲドン」の章ではこう書かれている。

「この世界は『地』『水』『火』『風』の4つの元素でできている。そのうち、『水』や『火』や『風』がときに災いの『もと』になることなら、誰でも知っている。けれども、『地』というものは、動くことなく、だからこそ、わたしたちに刃向かうことなどないと信じていたのだ」
「震災の直後、人びとは、少し変わったように見えた。目が覚めた、まったくどうしようもない社会だったんだ、といい合ったりしていた。(中略)だが、何も変わらなかった。時がたつと、人びとは、自分がしゃべっていたことをすっかり忘れてしまったのだ」

まるで3.11を経験した現代人のように、コロナを経験したこれからの我々のように、「ゆく河の流れ」は絶え間なく、諸行無常になってく。

そして、鴨長明は「モバイルハウス」を造ることになる。

「60歳になったときのことだ。『家』を造らなきゃ。そう思った。わたしの人生の締めくくりにふさわしい家を。そう。それは、長い旅の最後に泊まるホテルのようなものだ。いや、年老いた蚕が、最後に作る繭みたいなものだ。
 そして、造ったのだ。この、小さな、小さな、家を。30歳まで住んでいた、あの大きな家の100分の1もない。」
「なんで、そんなに超シンプルな造りにしたかというと、気が向いたら、すぐに引っ越しできるようにと思ったからだ。いつでも、どこへでも、すぐに移動できる。面倒な手間はいらない。台車が2台もあればオーケイ。金もほとんどかからない。これぞ、理想のモバイル・ハウスだ」

こうして、鴨長明はモバイル・ハウスを手に入れる。現代のミニマリストやアドレスホッパーのルーツがここにある。災害に臨機応変に対応し、お上の遷都にも翻弄されなくていい。そんな暮らしに到達する。

「ノスタルジア」を感じながらも、「イントゥ・ザ・ワイルド」へ向かう。そして彼は自分自身に問いかける。

「アー・ユー・ロンサム・トゥナイト?」
(あなたは今晩、寂しいですか?)

この章でこう綴る。

「みんなは、誰かのために、あるいは、なにか大切な目的のために、家を建てる。けれども、わたしはちがう。ただ自分のために建てたのだ。理由は簡単だ。こんな、なにが起こるかわからない時代に、そんな悠長なことはできない。だいたい、わたしには、一緒に住んでくれる人もいないし、世話をしてくれる人もいない。広い家を建てても、そこに住む人間など、他にいないのだ」

さらに、「友だち」についても語る。

「いまは、誰でも、友だち付き合いを大切にしている。だが、待って。よく見ると、みんな、まず友だちとして選ぶのは、金を持っているやつだ。次は、口先のうまいやつだ。ほんとうのところ、友情とか、素直な人柄だからとか、そんな理由で友だちを選ぶ人間はすくない。馬鹿みたいだ。それぐらいなら、友だちなんかいらない。楽器や季節を友だちにしている方が、ずっとましだ」

まるで、SNS疲れの現代人のように、人付き合いに疲れている。
だからこそ、このモバイル・ハウスでの暮らしを鴨長明は気に入っている。

「わたしはずっと『遠く』まで来てしまった。いろんな意味で。わたしがもっているものといえば、『こころ』だけだ。そして、世界は『こころ』が見せてくれるものなのだ。どんなにものすごい宝ものに囲まれていても、おだやかな『こころ』がなければ、なんの意味もない。豪華な宮殿に住んでいても、落ちつかないだけだ。
 わたしはいま、これ以上ちっぽけなものはないと思えるほど、小さく、みすぼらしい小屋に住んでいる。けれども、そこが気にいっている」

都心で暮らし、満員電車に揺られ、あらゆる情報に翻弄され、右往左往する日々と重なる。

最後の章「オール・ザット・ナムアミダブツ」で、鴨長明は自問自答する。俗世から逃れるためにこのモバイルハウスに来たけれども、こんなことをつらつら書いていることこそ「執着」ではないのか?

「ナガアキラよ、おまえが世を捨て、山の奥深くに入りこんだのは『ホトケの道』をきわめるためではなかったのか。なのに、おまえは、格好だけは浄らかに見えるが、なかみの方は、あいかわらず俗世の欲にまみれている」

自分自身に問いかけながら、このように方丈記は終わる。

「だが、わたしにはなにも答えることができなかった。ただ、『ナムアミダブツ』ということばを、2度、3度と唱える以外のことは、なにも」

約800年前に、現代人と同じような悩みを抱え、答えを見つけることなく、ただモバイル・ハウスに住んだ男がいた。俗世から離れ、「気にいっている」と言いながらも、ずっと都会の動向が気になっていたのかもしれない。都会で活躍する旧友のことや家族をもつ友人たち。彼はずっと気になっていたのかもしれない。

そして、最初の「ゆく河」の意味がわかるようになる。

「川が流れている。そこでは、いつも変わらず、水が流れているように見える。けれども、同じ水が流れているわけではないのだ。あたりまえだけれど。よく見ると、川にはいろんなところがある。ぐんぐん流れているところ。それほどでもないところ。中には、動かず、じっとしているところもある。
 でも、そこだって、結局は同じだ。しばらく見ていると、泡が生まれ、あっという間に消えてゆく。そう、たえず変わっているのだ」

長くなってしまったが、こんな風に800年前の文学に触れられ、今日のことのように共感できるのも、高橋源一郎の訳のおかげだ。たしかに、古語の深みは無いかもしれない。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の方が好きな人も多いかもしれない。けれど、池澤夏樹が言うように現在の文体にすることで「今の時代と響きあう」。

どんな知識にもどんな歴史にもどんな言葉にも、こんな編集ができたらな、といつも思う。


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