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ボディビルの美しさに迫る

 「146番,背中から羽が生えてるぞ.」「205番,なんだその大胸筋は」
 音響設備が整ったホールの中,威勢のいい音たちが,踊りだす.いつもは,ステージから発信される音たちも,今宵は受け手となりそれを愉しむ.ステージには,こたえるようにあふれんばかりの筋肉が躍動する.この空間・時間だけは何とも形容しがたい…


ゴールドジム主催2023マッスルゲートジャパンカップにて

 先週末,浦安市文化会館にてゴールドジム主催マッスルゲートジャパンカップがおこなわれました.知人のサポートということで参加してきました.気になる疑問が生じたので,議論していきます.



ボディビルとは

 ボディビル(ボディビルディング)とは,筋肉組織の構築を制御ないし発達を目的とした漸進性抵抗運動(Progressive Resistance Exercise).コンテストでは,体躯の調和・均整美、筋骨の強壮さ,筋肉の大きさ,体調を競い,舞台に立つにあたって格付け審査員に向けて構えをきめる.[1] 
 主に,身長や体重といった階級ごとに区分される.一次審査では,出場者が舞台に並び既定のポーズをとり,数名がピックアップされ,さらにポーズをとる.数回繰り返したのち,二次審査に進出できる人が選ばれる.二次審査では,各出場者ごとのフリーポーズにより審査される.曲は自由に選べ,指定された時間内で演技を構成していく.
 基本的に出場人数により審査回数は変動するが,既定ポーズからフリーポーズへの審査の流れは変わらない.

美しい身体なのか

 以上のようにボディビル・コンテストは,鍛え上げられ,減量と水分調整により隆起した筋肉をいかんなく披露する舞台である.ライトに照らされ,かげりを見せる身体は,まさに彫刻のようにカットがはっきりとし,観るものを惹きつける.まさに常人から逸脱した身体が,目の前に並んでいるのである.
 一方,極端に発達した筋肉を備えた身体は,本当に美しいといえるのか.ボディビルダーたちからすると挑戦的な疑問かもしれないが,ここにこそボディビル界隈が抱える葛藤の一つである「スポーツなのか,立ち位置はどこなのか」という課題が内在していると考える.

美しい移ろい

 美しい身体とは.私は美学を専門にしているわけでもなく,それに精通する芸術なるものを心得ているわけでもない.ただ少し身体についてかじっているので,その視点から「美しい身体」とは何なのかを問う.ギリシャ彫刻のような程よい肉付き,バランスのよい手足など外見の一元的情報からするとこのような点があげられる.美しいとは主観的なものなのか.…
 少し視野を広げてみよう.「美しい」という概念は,流動的である.例えば,2000年代初頭あたりはモデル体型といえば,細いシルエットが流行にあった.したがっていわゆる「痩せ」に美しさを見出していたといえる.しかし,過度な痩せへの追求は,拒食症といった健康被害を伴った.時は進み,近年の多様傾向は,「身体は自由よね.その人がよいと思えば.」という,これまでの極端からは遠いところにある「美しさ」が流行にある.
 つまり「美しい」という概念は,文化性・歴史性からみると普遍的かつ極端を足切りする向心力があるのではないかと考える.世論的に見ればの話であるが,ボディビルという固有の文化に当てはめれば,一掃されることになる.なぜならボディビルは,極端かつ超越した身体に美しさを見出しているからである.

終わりに~閉じ込められた美しさ~

 ここまで,ボディビルダーの身体が美しいといえるのかについて論じてきた.一般論では,少々受け入れがたい独自の概念が広がっている可能性がある.筋肥大を一例にしても,ボディビル文化圏での「美しさ」が存在し,審査項目になるほど価値がおかれる.
 一方,美しさの過度な追求は時に閉鎖性を生み,競技者たちを困惑させる.それが,ボディビル界に蔓延る「ドーピング問題」である.ステロイドやインスリン,ボディビルダーたちはよく耳にしたことがある物質たちである.その効果・効能の詳細はここでは割愛するが,ボディビル界はドーピング問題に悩まされている.

 ドーピング問題は,「ボディビルはスポーツなのか」という議論の中心にある.スポーツ倫理の側面から,WADAをはじめドーピングは基本的に撲滅する力が働いている.したがって,今後,当事者たちがボディビル界の発展を望むのであれば,ドーピング問題は避けては通れないのである.そこで「真に美しい身体とは何であるのか」という問いは,ボディビル文化の成熟並びに諸課題への足掛けとしての一助になるだろうと考え,私は今日も筋トレをする.

「美しいとはただそれだけで誘惑である」

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