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あこがれの大叔母

わたしには、大叔母がいた。
母方の祖母の妹である。

わたしは関西の出身だが、大叔母は横浜に住んでいた。
関わりこそ深くなかったがわたしは彼女がすきだった。

上品で知的。

「ごきげんよう」がご挨拶。
「はなももちゃん、~してくださる?」
なんて話し方がとってもすきだった。

小さくて、瘦せていて、いつもお洒落な大叔母だった。
彼女の姉、わたしの祖母はいつも凛として襟を正して生きている強い女性だったが、大叔母はしなやかで可愛らしくてこれまた強い女性だとわたしは感じていた。

ちなみに彼女たちは三姉妹で、末っ子の妹もお洒落で御年80歳のちょっとぶっ飛んだチャーミングな人だ(笑)

頑固な祖母も、大叔母のふわっとした声で「おねぇちゃんこうしたらいかが?」と諭されると弱く、いつも「○○ちゃん○○ちゃん」と仲が良い姉妹だった。

いつも季節の花が描かれたハガキ1枚で届く、大叔母からの手紙は季節の挨拶から始まり体調に気を付けるようにと締めくくられていた。

また年に数回、大叔母から届くお菓子や横浜中華街の肉まんを田舎に住んでいるわたしは心ときめかせて待っていた。

覚えているのは『資生堂パーラー』のお菓子。
『資生堂パーラー』という言葉の響きにカッコイイ!と感嘆し、やっぱり都会だなと子どもながらに都会へ憧れをいだく。

今年は、はじめて『資生堂パーラー』に行きたい!と東京旅行のスケジュールに組み込んでもらい念願の『資生堂パーラー』に行くことができた。

そんな大叔母は昨年亡くなった。
脳梗塞で倒れリハビリを受けていたが、最後は食事もとれなくなり亡くなってしまったようだ。

何度か手紙を書いたが、返事はなかった。
病床で読んでくれただろうか。
大叔母のことだから、手紙は読んでくれて心でいっぱい返事をしてくれたことだろう。

大叔母は生涯独身で、最期は妹とその娘に見送られたと聞いた。
わたしの母は「見送る人が少なくてかわいそうやぁ」と言っていたが、大叔母はどうだったのだろう。

大叔母は横浜が大好きで、横浜で樹木葬となった。
そよそよと風がそよぐ丘で、なんだか大叔母らしいなと思う。

彼女の90年程の人生、わたしは大叔母について改めて何も知らない。
どうして関西のドがつく田舎から関東横浜に向かったのか。
なんの仕事をしていたのか。

いつも上品でしなやかで可愛らしくてお洒落な大叔母。
謎めいたところも含めてわたしの憧れだったのかもしれない。

溜った彼女からの手紙を読み返しながら、やっぱり素敵な女性だったと思う。

よし、横浜まで会いに行こう。

まっててね。






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