あんたがたどこさ考 ③

その3 ちょっと長いよ
さて、前章でVatican's fig leaf campaignに触れ、それとこの手毬歌の共通点を匂わせた訳だが、あの一行のみを以てそんなことを言い出した訳ではない。それではただの妄言に過ぎないと言うものだ。
私は、この歌詞を具に見て驚きを禁じ得なかった。パズルのピースが次から次へと嵌まって行くのを感じた。それも面白い様に嵌まるのである。
それは、最早最後の1ピースが嵌まるのを待つまでもなく、眼前に広がるものが“Vatican's fig leaf campaign”を描いた絵であることが分かるほどであった。
その様を、以下に詳らかにして行こう。

●あんたがたどこさ
・どこさ
これは do / di(2)+icosa(20) から成り「22」を指す倍数接頭辞“docosa”のことである。DHA、ドコサヘキサエン酸の「ドコサ」がこれにあたる。
また、英語で「catch 22」と言う熟語がある。これは「どうもがいても解決策が見つからないジレンマ、板挟み状態、逃れようのないどうしようもない状況」を指す。
詰まりこの場合において、二進も三進も行かない、そんな状況を指していると捉えることが出来る。

●肥後さ、肥後どこさ
・肥後
アルファベットで表すと「higo」となる。これはスペイン語で―ー読みこそ「イゴ」となるが――「イチジク」を指す。

●熊本さ、熊本どこさ
・熊
元々熊本は「隈本」と言った。加藤清正が「隈」を「熊」に変え、今に至ると言うのである。
そして「熊」は獣である。「隈」の音読みは「わい」であり、この漢字の「こざとへん」を「けものへん」へ変えると卑猥の「猥」となる。訓はみだら・みだりとなり、性欲に節操のない様を指す。
・本
「元」と同義であり大本、物事の基本、根本、根源のことを指す。
これらに由り、熊本とは「卑猥の根源」を指していることが分かる。

●船場(せんば)さ
・船場
船着き場のことである。これはスペイン語で「Muelle」となり、形容詞として「享楽的な」の意味を持つ。享楽とは「快楽に耽る」の意だ。

●仙波山には狸がおってさ
・仙波山
船場(Muelle)+山となり、享楽の総本山くらいの意だろう。
・狸
狸と言えば信楽焼の置物を思い浮かべる人は多いだろう。あれは縁起物であるが、陰部が大袈裟に誇張されたとても卑猥なものである。また、「狸の金玉八畳敷き」と言う言葉が示す通り、狸は古よりその陰部と関連付けて語られる動物である。例えばそれは、歌川国芳の「狸絵」や二代歌川広重の「新板たぬき尽」に詳しい。

●それを猟師が鉄砲で撃ってさ
・猟師
マタギ・股木とも。また、狩りをする人、ハンター、追求する人。
この場合において、魔女狩りや言葉狩りを行うような良識人ぶった芸術検閲者を指すのだろう。
・鉄砲
うそつき、法螺吹きという意味がある。つまり、事実無根という事。
また、撃つは討つであり、非難・攻撃の目標として責め立てる、集中的に非難することである。
この場合において、猥褻表現に当たるとして集中非難する、難癖を付けるの意となる。

●煮てさ、焼いてさ、食ってさ
上述の事実無根の言い掛りに対し、作家やその擁護派・支持者らが「煮るなり焼くなり好きにしろ」と「食って」かかったと言うそのままの意。

●それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ
それ、つまり「露出した狸の置物の陰部」を「無花果の葉」で覆い隠したの意。

このまま箇条書きでは、中々全体としてのイメージが湧き難いと思う。
そこで、分かり易く意訳したものを下記に掲げる。

貴様らは、もう二進も三進も行かないさ
イチジクだ、イチジクだ、もう二進も三進も行かないさ
卑猥の本(もと)だ、卑猥の本だ、もう二進も三進も行かないさ
Muelle(享楽)だ、享楽の総本山、陰部丸出し狸の置物
貴様らにとっては事実無根の難癖だろうが、それを猥褻物として槍玉に挙げてやる
誹りを受けた貴様らは「煮るなり焼くなり好きにしろ」と食ってかかるだろう
そんなものは「ちょい」と軽く去なして、それ(陰部)をイチジクの葉で覆い隠してやる

私は上に、バチカン側の勝利の記録として意訳を試みたが、勿論、この手毬歌がこのバチカンの巻き起こした世紀の芸術検閲行為と言う愚行に対する抗議、非難の意を込めたものであるとも考えられる。興味のある方はそちら側からの意訳を試みては如何か。

孰れにせよ、これがこの手毬歌「あんたがたどこさ」に隠された真のメッセージであることは、最早疑い様のない事実として、皆様にも認識されたことと思う。

何時だれが何の為に、こんな手の込んだことをしたのか、それは分からない。
しかし、ヨーロッパを遠く離れた極東の辺鄙な小国で、バチカンに端を発した世紀の芸術検閲行為である所の「無花果の葉運動」が語り歌い継がれてきた事実があると言うことを、我々は重く受け止めなければならない。
この歌は後世に歌い継がれていくべきものである、私はそう思わずにはいられない。

私は早速明日にでも、スカート姿で「あんたがたどこさ」を歌いながら手毬と戯れようと思う。
もし貴方が明日、道端でスカート姿のおっさんが手毬唄を歌っているのを見かけたら、それは間違いなく私である。その際、どうか後ろ指指して嘲笑ったり、石を投げつけたりしないで欲しい。
寧ろ是非「あんたがたどこさ」を共にやろうではないか。この変態と一緒になって歴史を継いでいこうではないか。


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