勝手に続編「24さいのいきかたずかん それしかないわけないでしょう」
「24さいのいきかたずかん それしかないわけないでしょう」の感想
こんにちは、こんばんは、おはようございます。Rentaでございます。
今回は高校以来の友人がZINE(好きなものを自由な手法でひとつの冊子にまとめるという、新しい表現方法)を出版したので、その感想回です。
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友人が出版したZINEは「24歳さいのいきかたずかん それしかないわけないでしょう」というタイトルで、ジャンルづけするならエッセイ集だと思います。
このZINEの狙いは「王道の人生」だけが選択肢ではないということを伝えることです。「王道の人生」とは「学生時代は部活を頑張って、良い大学に入って、就活をうまいことやって、企業に勤めて…というルート」のことです。そしてそれだけがすべてではないということを伝えるために、実際に「王道」以外の道を歩んでいる方々による、自らの人生を振り返るエッセイが集められています。
全部で7本のエッセイが収録されているのですが、人々の人生に必然的なものを想定することは難しいということを意識することが大事なんだなと思いました。
エッセイに寄稿した人々は様々な形で「王道」ではない人生を歩んでいる方々なのですが、
・「王道」への反発から始まって、「自分の道」に確信が持てた人もそうでない人もいる
・ある出会いがきっかけで「自分の道」が見えた人もいれば、出会いはあったが道は(まだしっかりとは)見えてなさそうな人もいる
・一度は「王道」に入った人もいればそうではない人もいる
・わりと自由に道を選べたような人もいれば、自身や周囲のコンディション的にそうではなかった人もいる
ある時系列を想定するなら、「王道」へ違和感を感じるかどうか→「王道」でやっていけるのか→そこから(意思、能力、環境的に)抜け出せるかどうか→抜け出した後(もしくは入らない段階)で「自分の道」を進めるかどうか、またそのきっかけは何か→見つけた道に確信を持てるかどうか、
という「自分の道」へと至るプロセスもけっこう偶然に左右されている気がしました。偶然というよりは、「人による」と言ったほうが正確かもしれません。
確かに、個々の人生における意思決定のファクターを統計的に導き出してもあまり意味がないように思われます。「多くの人はこのように人生を決めた」と言われても、本人にとっては1度きりの人生ということを考えれば、多くの人が選ぶ道(≒王道)という選択が納得できるとは限らないからです。
そうなると、人生の道を決めるときには絶対的な基準を定めるよりは、やはり自分にとってしっくり来る形で道を定めるのが良さそうです。ここで、「しっくり来る」というのは、wantでありcanであること。つまり、あまり肩肘張らずに自然体でできること。且つ自分がやりたいことと捉えてみます。
具体例として服で考えてみます。流行りに乗るよりは自分の体型とか好みに合っていて、長く着れそうな服を探すイメージです。そして、この服は普段着のことです。衣装うや冠婚葬祭用みたいな用途や場面が決まってる服ではないです。短期で爆発的な熱より長期でほんのり温かい感じの満足感を与えてくれる服を探すというイメージです。
ではせっかく生き方に関するエッセイたちを読んで、上記の学びを引き出せたので、さっそく私の人生を振り返ることで(勝手に)続編というか、Renta版「それしかないわけないでしょう」をやってみます。
Renta版「それしかないわけないでしょう」
「しっくり来る」ようにするために自分の人生を振り返ってみる。そうすると、自分の人生は「逃走的闘争」だったということが分かる。
どういうことか?
まずは「王道」を目指さないこと(逃走)。とはいえ、コミュニティや社会の中で役割を見出さない、ということではない。自分の手持ちの武器を周囲の環境で使うためにそれなりに努力する(闘争)、ということだ。
「王道」は多くの人が狙う道でもある。だから競争も激しいはず。それを目指さないのでまずは逃走だということだ。とはいえ、何もしないというわけではない。卑近なところでいえば、食い扶持を確保する必要があるし、もっと誠実な理由だと、自分にこれまで関わってくれた人たちには何らかの形でお返しする必要があると私は考えているので、何らかの形で頑張る。それが闘争である。
一般的に流布している言葉で似たニュアンスを持つものに「差別化」がある。しかしこれはどうも「しっくり来ない」。
それは他人と異なっていることに重きを置きすぎているように感じているからだ。私が大事にしたいのは自分が元気にやっていくことであって、差別化を追求しすぎて元気がなくなるくらいならやりたくない(差別化はwantでもcanでもない)。
だから、「逃走的闘争」とは、自分の今いる・これから向かう環境と自分の手持ちの武器をフィットさせようとする営みである。
これまで私が行ってきた「逃走的闘争」を簡単にまとめてみた。
・中学時代:バスケ部に所属。身長は164㎝とバスケをやるには小柄ではあったがスタメンだった。理由は、バスケ部の中で短距離と長距離がともにトップだったので、それを活かしてすべての速攻で先頭を走るように努めたから。速攻は疲れるし必ず成功するわけではない。だから上手い人はうまくサボる。しかし相手にプレッシャーをかけるには毎回走る人が一人は必要だった。その役割を自分が担った。
・高校時代:軽音楽部に所属。もともとギターをやっていたが、「自分よりうまい人はすぐに出てくるはずだから、技術は当然練習するとしてプラスアルファが必要」と考える。そこで、当時ロック界で流行していたツーステップというダンスをギターを弾きながらすることに決める。そのために足の裏に青タンができるまでステップとギターの練習をした。
・大学時代:スタートアップ企業でインターンシップをする。活動内容は会社の理念を人文知の視点から解説・補強するというもの。この活動自体が、経済合理性のロジックに支配されてしまいがちな企業の活動に、人文的な価値を挿入する試みであるといえる。
・現在:哲学者である荒谷大輔さんが運営する贈与経済圏(ハートランド)の準備委員会に所属し、キーワード集を作成している。これはハートランド内に贈与経済の実践者が多いのと対照的に、概念整理に積極的かつその時間や余力がある人があまりいないように見受けられたため。自分は哲学専攻でやっていくのでその方面に関心があるし、大学院が4月からなのでそれまではギャップイヤーでその余力があったため。
中学・高校・大学以降でかなり領域が変わっているように見えるかもしれない。しかし、バスケ・ギター・研究(勉強)という三要素は中学時点でそろってはいた。歴が進むにつれてレベル差が生じ、現在は研究がかなり優位になっている。これはできることが少なくなったとも捉えられる。が、私はそれでもよいと考える。というのも、バスケやギターに投入する時間を減らすことで、研究(勉強)のキャパシティを増やした結果だからだ。
そして、これは中学でバスケをやめた理由でもあるのだが、私はマルチタスクが苦手だ。ギターもプロでやっていくにはバスケの試合ほどではないにしても、多面処理の力は必要な感じはする。そこでは伸びが期待できなかったので、まだ一点集中的な言う研究(勉強)にベットした。
スポーツや音楽でも一点集中が大事なのはもちろんそうなので、研究(勉強)における一点集中の快楽が、スポーツや音楽のそれより自分に合っていた、というほうが正確な解釈かもしれない。
さて、ここまでで「自分の道」とは「逃走的闘争」ということがわかった。
その具体的内容は研究ということになる。分野は哲学で、研究対象は日本人哲学者の柄谷行人だ。(下のnote参照)
https://note.com/shiny_otter229/n/n4c2db964db47
しかし、まだこれだけでは「しっくり来ない」。哲学を研究したとして、どうコミュニティや社会に貢献するのかわからないからだ。上のほうの「逃走的闘争」での定義で示した通り、「逃走的闘争」と言っても社会から完全に逃げたり、何かを打ち倒したりということはしない。自分の手持ちの武器でコミュニティや社会に何か奉仕したり、贈与したり、交換したりすることは志向しているのだ。
だから、私にとって「しっくり来る」ためには、個人レベルの実践でしかない「逃走的闘争」を、社会レベルに位置づける必要がある。
このとき参考になるのが、長沼伸一郎さんという人が『世界史の構造的理解』という本で展開している、予備戦力に関する論である。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784569852256
予備戦力とは、戦争において戦局を左右するとっておきの戦力を指す。とっておきなので、初めから最後まで前線に出張っているわけではないが、二軍というわけでもない、
この本では予備戦力の意味を軍隊から離れて広く用いている。社会的な規範からある程度逸脱した形を取りつつ、時代の変わり目で活躍するような人たちのことを、いわば社会の予備戦力としているのだ。最大の例は幕末志士で、当時の規範であった鎖国や武士の優位性の保持でなく、尊王とか西欧civilizationの取り入れを推進し、日本を大国に導いていった人たちだ。
ここからさらに社会の予備戦力という考え方をアレンジすれば、「もしかしたら来るもしれない未来」にフィットする(かもしれない)人材として、人生送っとくということだ。
「王道」ではない「自分の道」=「逃走的闘争」=哲学研究=社会の予備戦力(時代の変わり目に参考になるかもしれない生き方の提示・実践)、という考え方はこれからの自分にけっこう「しっくり来る」。哲学がそういう傾向を持っているし、研究対象の柄谷行人の主張もそんな感じだからだ。
さらに言えば、「いま・ここ」で役に立つことは哲学以外の経験科学に任せた方が、観測方法も確立されているしお金も引っ張りやすいはず。そんなところに哲学や思想が茶々入れなくてもよいはずである。哲学が担うものに「もしかしたら今後大事かもしれないけど、現状は方法が確立されていなかったり、データが不十分だったり、倫理的な問題があったりで、経験科学だと現状は取り組めない領域」が含まれるはずだからだ。
人々の生き方も同じだと思う。「王道」が「王道」であるのにはそれなりの理由があるはずだ。たとえば、制度が整っていることや情報が多いことが挙げられると思う。しかし、社会のメンバー全員が「王道」に進むとなると、共倒れを避けることは困難なはず。だから、今後大事になるかもしれない生き方の実験台として、自分の人生を社会と関係づけることができるはず。
ひとまず、「自分の道」をこのように捉えてみたいと思う。
最後までお読みいただきありがとうございました!