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喋らない子は、「大人しい」でも「真面目」でもない。

 これまでの記事で書いてきたように、私は、保育園に入園して場面緘黙症を発症し、保育士から虐待を受け、家の中と先生の前以外では全く話せなくなった。これは、中学を卒業するまで続いた。進学した高校の最初のクラスには、同じ中学の生徒がいなかったという環境もあり、自らの強い意思によって、緘黙を克服した。
 その経験から言えることは、脱・緘黙は、早ければ早いほどよいということだ。


トラブルを起こさないだけ

 保育園や幼稚園で緘黙を発症した場合、最初に克服するチャンスは、小学校入学だ。この環境の変化を使わない手はない。
 私には、それができなかった。
 いろいろな背景はあっただろう。まだ緘黙という言葉もなかった30数年前だ。親も学校も、そのうち話すようになるだろうと軽く考えていたと思う。「先生の前では話さなければ怒られる」と保育士からの虐待で刷り込まれたことで、学校の授業中に先生から当てられても、答えることはできた。本読みもしたし、給食当番もやったし、掃除もきちんとやった。
 だから、教師にとって私は、「手のかからない大人しくて真面目な児童」だった。

 違う。

 真面目なんかじゃない。喋れないから、クラスメートとトラブルを起こすことがないだけだ。喋れないから、授業を妨害しないだけだ。
 教師にとっては、問題を起こさないことが、一番都合がよいのだろうが、それを「大人しい」や「真面目」で片づけてほしくない。
 なぜなら、場面緘黙症は、学校教育上は情緒障害だからだ。障害を健常に変えるのは、本人の力だけではとても難しい。障害を補うための、支援が要る。
 だが、実際には「真面目」で片づけられたことで、私は、緘黙のまま歳を重ねることになった。この「真面目」は、通知表の担任コメント欄に、何人もの教師から書かれた言葉だった。「授業態度は真面目」「クラスの係活動に真面目に取り組む」。その「真面目さ」のせいで、喋らないことを理由に後にいじめられても、ただ耐えることしかできなかった。

それなりの学校生活

 先生がいない場面では、以前の記事で書いた、横断歩道での「サイン問題」などが徐々に表に出てきてはいたが、そんな私にも友達は何人かいた。その友達とは、休み時間にボール遊びをしたり、放課後に家に遊びに行って一緒にテレビゲームをしたりしていた。
 こちら側の意思表示は、首を縦に振る「はい」か、横に振る「いいえ」だけだった。会話はできない。
 それでも、その子たちからは「何で喋らないの?」とか、「‟あ“って言って」などとは言われなかった。保育園の友達と同じように、喋らない私を、‟ありのまま”を受け入れてくれていた。

 現代の大人たちが、多様性を大切にしようとか、自分らしく生きようとか、ありのままにとか、そんな綺麗ごとを大上段に言い始める何十年も前から、先生の前でしか喋らないという普通とは違う私を、何も否定せずに受け入れてくれる子どもはいた。まだ何ものにも染まっていない、純粋な、小さな子ども同士だからこそ成立した関係性だろう。たまたま同じ年に生まれ、同じ地域に住み、同じクラスになっただけの偶然の出会いだが、喋れない私と友達になってくれる子が、確かにいたのだ。
 少なくとも、小学3年まではそうだった。喋れなくても、‟それなりに“学校生活を送ることができていた。だからこそ、「大人しい」や「真面目」で済まされていた面はあるだろう。
 冒頭、緘黙の克服は、早ければ早いほどよいと書いた。それは、何かのきっかけで、または適切な支援を受けて、ある日突然喋るようになったとしても、周りの子が幼いうちは、彼らの驚きや疑問、違和感も少ないと思えるからだ。まして、喋らないことを否定しない友達が少しでもいれば、喋り始めても、きっとその変化を受け入れてくれるだろう。

「ありのまま」ではいられない

 小3の終わりに、親が家を購入したことにより、私は引っ越しをした。そして、小4の春に転校した。
 就学時に失敗し、小3の終わりまで緘黙を克服できなかったが、転校は、緘黙を克服するビッグチャンスだ。環境が変われば、自分が変わるきっかけになる。
 だが、ここでも私は、誰からも何の支援も助けも受けることがなく、結局「喋れない自分」を変えることはできなかった。年齢が上がると、「何で喋らないの?」という単なる疑問では済まなくなった。周りからは、茶化され、馬鹿にされ、責められるようになった。
 ありのままの姿を受け入れられることは、なくなっていった。

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