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「はい」と「いいえ」だけでは主人公にはなれない。ドラクエとは違う緘黙児の現実

 これまで書いてきたように、私は保育園児のときに、家族と先生の前以外では話ができない場面緘黙症を発症し、それが固定化した状態で小学生となった。小学3年までは、友達と喋れないながらも何とか学校生活を送っていたところに、転機が訪れた。
 親がマイホームを建てたことにより、転校したのだ。

 9歳の私は、誰に何を言われたわけでもなく、新しい学校に行ったら、クラスメートと喋ろうと決めていた。
 平成になって間もない頃。
 当時はまだ、場面緘黙などとという言葉はなかった。発達障害も存在しなかった。だから、一般級(普通級)での個別対応や、障害児に対する特別な配慮は一切なかった。
 
 おそらく、学校間でも何の引継ぎもなかった。親も、転校先の小学校に対して、何の配慮も求めなかった。なぜなら、家族と先生以外とは喋れないという普通ではない症状のある子どもが転校するときですら、相変わらず大人からの支援が何もなかったからだ。当時9歳だった私が、誰にも言わずに、誰からも何も言われずに、一人で決めたことだった。


転校初日から友達

 新しいクラスは、4年1組だった。転校先の学校では、入学後に2年ごとにクラス替えをしていたため、4年生の春は、クラス替えがないタイミングだった。ドラマやアニメで見るような、教室の前に立ち、先生が黒板に名前を書いてくれ、自己紹介をして…という儀式もあったようにうっすらと記憶している。
 自分以外は初対面同士ではないという環境で、担任教師の計らいだったのかは今となっては分からないが、通学路が同じ男子児童と何となく一緒に帰ることになり、私は、その子たちと喋ることができたのだ。当時流行っていたテレビゲーム『ストリートファイターⅡ』の好きなキャラクターや必殺技のことも話すことができた。
 新学期初日は、午前中で学校が終わるため、午後は時間がある。転校初日から、その子たちが新築の家に来て、庭でドッジボールをして遊んだ。喋ろうと決心したことを現実のものにすることができ、新しい学校で早くも友達ができた。
 転校してよかったと思った。

緘黙に逆戻り

 だが、長続きはしなかった。
 いつからか、どのタイミングかは覚えていない。それが、1学期だったのか、夏休みが終わった後の2学期からだったのかも記憶にない。保育園の最初の記憶と同じように、‟気づいたとき“には、クラスメートとは全く喋れなくなっていた。いつの間にか、また周りから、「何で喋らないの?」と聞かれるようになった。

 何を聞かれても、答えられない。これも同じだ。
 ロールプレイングゲーム『ドラゴンクエスト』の主人公のように、意思表示は、頷く「はい」か、首を横に振る「いいえ」だけだ。ドラクエなら、主人公が喋らないことに他のキャラクターや村人から何の疑問ももたれず(ゲームのプレーヤーが、主人公になるという設定だからなのだろうが)、みんなの人気者で、世界を救う勇者になれる。
 喋れない緘黙児は、クラス内の主人公、つまり主役級には絶対になれない。脇役ですらない。ただの変な奴だ。

会話の仕方が分からない

 なぜ、私は脱・緘黙に失敗したのか。
 喋り方を知らなかったからだと思う。言葉でコミュニケーションをとった経験値が圧倒的に低いから、そもそも会話はどうやってするものなのか全く分からなかったのだ。分からないからできない。結果として、新しい学校では喋ろうと決めていた9歳の子どもの決心だけでは、どうすることもできなかった。

 会話はよくキャッチボールに例えられるが、相手が構えているグラブに向けてボールを投げるように、相手が受け取れる言葉を投げかけるものだ。ドッジボールのように、本気でぶつけようとすると、相手を傷つけてしまう・・・、というのは、あくまでもルールやマナーの問題だ。
 緘黙児は、そもそもボールの握り方や投げ方を知らない。だからやはり、寄り添って手取り足取り教えてくれる大人の存在は必要だったと思う。何度も書くが、脱・緘黙は、早ければ早いほどよい。そうしないと、私のように、大人になってからも苦しむことになるからだ。

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