見出し画像

強迫症についての断章

序文

精神医学で言う強迫性障害とは、不快なイメージ(強迫観念)が頭から離れず、それを解消しようとする行為(強迫行為)が止められない病気である。
ここでは強迫症とは何か、強迫とはどのような精神構造のもとに生じるものなのか、さらには、その治療について少し書いてみたい。
強迫症は精神疾患であるが、「強迫性」は私たち誰にでもある傾向だろう。「時間がもったいない」というタイパ思考、「生産性がないことに対する拒否感」のようなコスパ思考も大きいな意味で強迫的傾向と現れと言える。強迫とは現代社会に生きる私たちにとっては、逃れることのできない概念であり、「時は金なり」と言うほど、私たちの精神に染み込んでいる精神であるだろう。

強迫的性格とは

さて、ここからが本題。強迫症を発症しやすいとされる病前性格は強迫性格と呼ばれ、精神科医ジャネによると、強迫者の体質的基盤として精神衰弱的特徴を以下のようにあげている。

  1. 尖がった石の上を歩くような細心の心遣いと疑惑的な傾向

  2. 道徳意識がおびやかされやすい傾向。社会との接触において臆病であり抑制がある傾向

  3. 内観的な内面生活を自己分析する傾向

  4. 性的な障害(異性との交渉のないこと、インポテンッ、冷感症)を持つ傾向。精神運動性の障害のスチグマ(どもり、チック)

強迫者とは日本語で言うところの「石橋を叩く」タイプが多いようである。そしてその傾向に、強い道徳意識と自意識の集中、対人関係の基本的不信感があるにもかかわらず、それに当人は気がついていないということが挙げられるだろう。その傾向が病的な域に達すると、悲しいことに精神科に来院されることになるわけだが、その症状の極として、強迫性人格障害がある。その特徴について、成田善弘は以下の5つを具体例とともにまとめている。

  1. 暖かくやさしい感情を表現する能力に乏しいこと、たとえば、患者はひどく紋切り型で生真面目かつ形式ばっており、また出し惜しみをする

  2. 全体像を把握する能力を妨害している完全主義、たとえば、とるに足りない細目、規則、秩序、体制、予定、およびリストへのとらわれ

  3. 自己流のやり方に服従することを他者に強要し、そのことが惹き起こす感情に気づかないこと、たとえば、妻の計画におかまいなく、自分の用事を完全に行うよう頑固に主張する夫

  4. 楽しみと対人関係の価値を犠牲にしてまで極端に仕事と生産性へ献身すること

  5. 優柔不断、おそらくは間違いをおかすことを過度におそれるために、決断を回避、延期、または引き延ばす。たとえば、どれを優先すべきか思い患い期限までに任務を遂行できない

これらは一瞥するだけで「とっつきにくい人」という印象を与えるだろう。精神科においても、強迫の人は嫌われ者になりがちである。それは、強迫者と接していると、治療している側の人が、自身の強迫的傾向が患者によって刺激され、焦りと不安が生じ安くなることと無関係ではないように思われる。強迫者は他者の陰性感情を刺激する対人様式を持つ。一見丁寧な口調で気遣をしているように見えるものの、その裏には自己中心性、攻撃性、他罰的、楽しむことのない基本気分が隠れている。そうした陰性の感情価を察知する人にとって、強迫者は何か心がざわざわする、近寄りがたい人として認識されてゆくことになる。

強迫的人格構造について、笠原は「強迫性格スペクトル」という考えを提唱している。制縛性格、森田神経質、敏感性格、メランコリー親和型性格などが、その性格特性にあたる。そこに共通する世界関係は次のようなものになる。

  1. 人生の予測不能性、曖昧性を極小におさえるための単純にして明快な生活信条ないし様式の設定

  2. 整然たる世界を構成しうると考える空想的万能

  3. 予測不能性をあらかじめ排除するための呪術の理由

  4. 不確実性の高い領域への不参加とそれに対する生活圏を狭める

強迫はスペクトルであって一定な枠組みの解釈ではなく、つねに流動的で、症状も幅を持つ。不確実を避けるために、「確実性の志向」が目指される。強迫者は、表面的に見れば確実性の愛好者になるが、より正確にいうと、不確実性の排除のための正確性の追求を至上の理として動く人と言える。予測可能性を立てることのスペシャリストであり、リスクヘッジの達人である。しかし、人生における重要な出来事はほとんど偶然に左右されているのが実情であるため、そこに葛藤が生じ、終わらぬ確実性の追求が始まっていくことになる。

性差とその病理的背景

成田によれば、青年期の強迫神経症者はその多くが男性であり、多くは第一子で、幼児期から過保護過干渉に育てられ、まじめで学業成績もよく、親から将来を嘱望されているという。家庭では、両親の期待からはずれることはそのまま悪しき凡庸に堕することを意味する。彼らの人生設計は一見確固たるもののように見えるが、それは真の自己決断ではなく、親の期待に沿うことによって万能感を維持しようとする試みにすぎない。この発症は中学生、高校生年代が多く、学業成績の低下、入試、進学して、そこでそれまでの万能感が傷つけられる体験をもつこと、不本意な学校に入らざるを得ず、そこで周囲を軽蔑しつつ孤立してゆくことなどが発症の契機となる。あるいは、異性との接近のエピソードや性的刺激の経験が発症に先立って存在することもある。青年期の彼らの眼は自己の内面に注がれることになり深い自己内省の時期を過ごすことになる。

青年期の強迫者は、人格の内向がとりわけ鮮明に見られ、青年期にむしろ外向的になるように見える不安神経症者とは対照的である。そして自己を強く意識すると同時に、彼らは自己と他者を比較し、そこに青年らしい思い上がりと自己不全感が同時に露呈することになる。彼らは仲間を求めつつも、仲間に優越した存在であらねばならないと考える。さもないと悪しき凡庸に堕し、おのれの独自性、非代替性すら失われる。そしておのれの存在に対する深い疑惑、非安全感が露呈してしまうからである。

一方、女性はというと、女性の強迫症は青年期にも見られるが、発症のピークは二十代、三十代にあり、既婚者が多いとされる。彼女らの生育歴を見ると、幼少児期にはむしろ「かまってもらえなかった」(少なくとも主観的には)と述べる例が多い。「かまう」「かまわれる」という言葉は女性の強迫症者を理解する一つのキーワードのように思われる。彼女らは青年期に達するまで勝気なしっかり者として、男性に伍して「達成」を目指して努力するがなる成熟に促されて、あるいは女性にかかる社会文化的期待もあって、その主要な関心を「達成」から「親密」へと移す。しかし達成を目指す「男性的」心性は彼女らのなかに根強く残り、彼女らは葛藤をはらんだまま青年期を過ごす。
つまり、男性の青年期の強迫症者が強迫観念ないし不安を自己の内界に保持し続けようとする傾向があるのに対し、女性は、症状のなかに夫、子どもなどの具体的で身近な他者が出現することが多く、他者を含みこんではじめて完成する。彼女らは不安解消のためにつねに執拗に他者の介人(他者にかまい、他者にかまわれる)を求め、他者を巻き込み、しがみつき、結局他者をして自分に奉仕せしめ、疲労困憊させてしまう。強迫症者のもつ万能感、人間関係を支配・被支配の軸で見る傾向が、女性においては夫との関係において発現し、彼女らが病態のなかで夫を支配して、万能感を維持しようとしているのかもしれない。あるいは、自分に妻、母としての女性性を担る夫へのひそかな復讐の念が含まれているかもしれない。以上の強迫症の男女別の発症構造を図にするとこのようになる。

男:「かまわれたくない」―強迫傾向―人格の内向・分裂気質の露呈―発症
女:「かまわれたい」 ―強迫傾向―結婚・出産・親密をめぐる葛藤―発症

男女の強迫症の精神病理的背景

さて、強迫症者(主として男性の)の性格には強迫傾向と分裂気質傾向の両者が認められるとして、それが単に併存しているのか、それとも層構造をなしているのかが問題となる。

青年期に発症する強迫症者には、強迫傾向とともに分裂気質と呼び得る面を有する例が多い。彼らの多くは、神経質、内向的、感情閉鎖的、友人が少ない、知的、観念的、理想的、空想的、身体運動は不得意、やせているなどといった特徴が見られるが、これらは分裂気質傾向としてまとめることができよう。彼らの内奥には、他者との人格的ふれ合いへの恐れ、対人的傷つきやすさがある。やさしさの感情のあらわし方の不器用さに彼ら自身ある悲しみを抱いているかのように見える。彼らの対人的孤立感、ただひとりであるという感じ、内心の深い非安全感は、人格の中核に存する分裂気質的なものに由来するのであろう。(ちなみに分裂気質人格障害の診断基準の第一には、「冷淡でよそよそしく他者に対するやさしい感情を欠いていること」とある)。

彼らは他者の優位に立ち衆に勝れようと望むが、そこにはいわゆる世俗性があまり感じられない。強迫症者にして、どぎつい現世的出世主義者、拝金主義者はあまり見られない。彼らが目指すのは学者、文学者、その他の知的職業が多く、多少とも世俗否定的、現世超越的側面をもっている。また彼らは宇宙、天文などの科学的ないし神秘的なものへの関心をときに示すが、宇宙や星々への関心は、彼らが対人関係から引きこもり、そこで万能感を展開し得る場所でもあり、一方彼ら自身の人格の内奥の果てしない空虚に引きこまれてしまうことへのかろうじての防衛とも思われる。

強迫―分裂傾向については、いまだ確定的な見解を述べ得るに至らないが、現時点では次のような仮説を立てておきたい。彼らの人格の中核には分裂気質的傾向(かまわれたくない)があり、それを包むようにして強迫傾向が発展し、学意期においては強迫的防衛が成功裡に機能している。青年期に入って人格の内向が生じ、対人希求と忌避の葛藤が深まると、強迫的防衛のある程度の成功により形成されていた人格の外皮(なかなかに硬いが)が破綻し、中核にあった分裂気質的葛藤が露呈しかかる。それを救わんとして強迫症状が発現するのであろう。

強迫症の精神病理的解釈

発症の早期において、強迫行為は基底にある強迫観念や強迫衝動をコントロールしようとする防衛的試みとしてみることができる。たとえば、何か「悪い」観念が浮かぶと、その場に立ち止まって足踏みしないではおられない例。一見、一次的と見える強迫行為の根底にも、無秩序、崩壊、混乱への恐怖が存在すると考えられる。病者が意識的に高度の努力をするにもかかわらず、あるいはむしろ、あたかもそのゆえに、強迫行為が彼が本来回避し、防ごうとしていた事態を実現してしまうことはめずらしくない。また、最初は原衝動に対する防衛であって、禁止や自我の制限の産物としての面が前景に立っていた強迫行為が、しだいに代理満足の面を前面に出すようになる。

安永浩は強迫症の恐怖は具体的なものに対する恐怖ではなく、表象に対する恐怖であり、「イマジネーション」に対する恐怖であるとしている。この「イマジネーション」というものは、サルトルが「イマジネーションの本質的貧困」と言ったように、その対象のディテールについて問うと、ぼやけていることがイマジネーションの本質であると言える。つまり、解像度が低いのである。それは不気味さが残るものである。この不確実性に対して、強迫患者は意識性を高めて不安を解消する心理的戦略をとる人である。すると、より細かいディテールに囚われて悪循環を引き起こす。強迫症は、この「不安」が核心にある。不安は真正面から取り扱うことが難しいので、精神療法は向かない。強迫という鎧を着ているのだから精神分析をした結果に何が飛び出してきても不思議ではない。いずれにしろ強迫患者のもつ殺風景の風景がなんらかの表現形として前面に出てくるだろう。

力動的観点から強迫症の病理を眺めると、強迫症状の根底にあるコントロールについて、他者を支配しコントロールすることが決定的な役割を演じている。グリンバーグはそこに「適応的コントロール」と「全能的コントロール」とを区別している。強迫症者はその自我と対象関係の発達の途上で、「投影性同一視」を自己の欲動のコントロールとして用いる。彼らは自己の欲動を外界の対象に投影していて、その対象の満足を通して自己の満足や安全をはかる。つまり、投影そのものが自己を再統合する機能を果たしている。このように投影性同一視が強迫症者において適応的に働く場合を「適応的コントロール」と呼ぶ。もし対象関係において投影性同一視がこのようにうまく機能しない場合には、被害的不安が露呈し、時にはそれに対する防衛としての分製機鶴や「全能的コントロール」(投影の引き受け手となった対象《全体的人格ではなく部分対象とみなされる》を全能的に支配し振り回そうとする機制)が用いられるようになる、とグリンバーグはいう。

精神分析では神経症の成立について、自我が衝動の比較的発達した水準つまり性器的段階にまで発達したのちに、エディプス状況に関連した不安、葛藤の耐え難い増大があると、それが衝動のより早期の固着点までの退行を惹き起こし、幼児的、前性器的衝動(性的、攻撃的)が出現するとしている。この段階において超自我が重要な影響力を及ぼし、それが自我の内部の葛藤を増大させる。そして、これに対してさまざまな防衛機制が作動し始め、不安と葛藤をさまざまな程度に押さえることになる。症状と性格障害は、はじめの耐え難い不安、退行の到達点、そこから生じる原始的衝動、超自我により惹き起こされる不安と罪責感、自我の防衛機制のさまざまな組み合わせと相互作用などによっても形成されてゆく。どういうタイプの神経症性障害が生じるかは、退行の程度、否認される衝動と空想の内容、そしてその上に働くいくつかの防衛機制によってきまるとされる。

強迫症において防衛されているイド内容の質は、「肛門サディズム期」の衝動ということになる。自我の働きからみると、このようなイド衝動を意識から除外しようとして、否認、抑圧、退行、反動形成、分識、取り消し、魔術的思考、疑惑、不決断、知性化、合理化などがさまざまに組み合わさって用いられる。これらは、抑圧を除いてはすべて、厳密に思考過程の領域内で作用する。臨床像は固定し安定化しており、反動形成と知性化が大きく作用して神経症の形成されやすい条件についてみると、強迫的防衛が生じるのは、自我が衝動よりも急速に成長したときである。すなわち、肛門サディズム傾向が最盛期に達するとき、自我と超自我がすでにそれらに耐えられないほどに発達しているときである。これらがアンナ・フロイトの総括の要旨であるが、精神分析では、強迫はその基本障害(肛門サディズム)とそれへの防衛過程として考えられていると言えよう。

強迫症の治療

強迫症の治療について、中井久夫は回復過程を三段階に分けて考えている。第一段階は、症状に支配された苦しい生活が続く時期。面接者からは症状を尋ねず、生活の何パーセントくらいを邪魔しているか、という質問に止める。そして毎回身体診察をすることが重要な意味を持ってくる時期になる。第二段階は、病圧の急激な減少と生活の模索が始まる。精神療法では、深い感情の動きに焦点をあて、しばしば現在の問題から遡って過去の外傷体験に及ぶことも辞さない。第三段階は、強迫症に支配されない生活の再開と拡大である。柔らかい需要的な態度で話を聞き、実験的な試行として助言を求められれば治療的な行動をおこす、治療上の重要な点は、睡眠の確保と症状を意識の中心から外す「脱中心化」をすることである。脱中心とは詰まる所、こちらから症状を聞かないということである。平静な様子で聴き、症状ではなく、患者の生活と感情に焦点をおくとになる。そして、患者の士気を保つこと。治療は突然に起きると伝える。これは意識が治療を妨げるという強迫症の悪循環をなくす意味も含んでいる。そして、治療者は努めてオープンでユーモアとゆとりを持つこと。大げさに声の抑揚を使い、表情も使う。すなわち、患者のこれに対応する動きを誘うのである。平板な言語的なやりとりは慢性化につながる。強迫症者の表情は平板で硬直的なのが一般的だがそれを和らげることにつながる。最後に、治療者はあせり、一喜一憂しないこと。硬い治療理論の枠に患者をはめることに注意する。

サリヴァンは強迫患者の治療について、面接では即効を期待してはいけないと言っている。たとえば、解釈を一つ伝えるとそれに反応するのは大体半年かかるという。その間は無反応で聞いているかもわからないような調子だという。解釈をする際には「一般論としてはこういう時はこうですよ」という風にするのが良いようである。中井はわざわざ「一般論としては」ということは、強迫患者の持っている意識性の高さを名指すことによって高めないようにする効果があるという。ぼんやりとした言い方の方がいいのである。強迫患者の強迫した話し方に対しては、こちらは反対に、ゆったりとした調子で話すのが良い。

そして、またサリヴァンの言うことだが、強迫症が治る時にはなんらかのハプニングが多いと言う。偶発事を締め出した生活体系をしている患者にとって意外な効果がある。治療は水の中を漂うようなイメージを持つと良い。強迫者は水泳が苦手な人が多いそうである。それは、安心して水に「身を委ねること」を前提とするためだろうと中井は言う。

水に浮かぶこと。泳ぐこと。偶発性の海を漂う生である人間としての実存の回復と、その享楽を、その手に戻すことが強迫症の治療と言えるのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?