自分が書いた小説を分析してみた

皆さん、こんにちは。
今回は、小説を分析してみて感じたことについて書きます。
というのも、最近大学の課題で、梶井基次郎の「檸檬」という短編小説を分析して、その後の授業で先生の分析と照らし合わせてみると、当たっていたので良かったと思ったのですが、それと同時に、自分が書いた小説チックなもの

を分析したら、どうなるんだろうと考えてみると、なんかいやな気持になってしまった。
なぜだろうと分析すると、明らかに内的に過去の自分がした行為を今の自分が解釈して書いている。それを書くことによって、内的満足を得ているということ。要は自己中が混じっているということだ。
そして、表現が強い(笑)

私は、絶望の淵にずっといる気分だった。

志望大学には受験すらできず、父には夢を否定され、ある本の書いてあることやってもうだつが上がらない。習慣も続かない。大学にも行けない。

でも、唯一信頼できる人が母だった。

こういったことを書いているが、はっきりと自分は家族のせいで、つまり恨みが募っていたということを強く主張してしまった。
”家族”というとても複雑であり、個人個人にとっても価値観が全く違うものを、断定的に否定して終始書いてしまった。
書くのであれば、それまでの過程を軽く話したうえでこういったことを語る。つまりこういうことになった背景を軽く語れば納得できるのだが。
明らかに反省点である。




次に、学問的学びがはっきり言ってない。(笑)。

絶望って悪いことってとらわれがちだけど、

私は、絶望があるから人と出会える。

ご縁が結ばれると思う。

これだけである(笑)。
”思う”というのは、自分はそうだったけど、他の人は違うかもしれない。みたいなイメージも含まれていると思うのだが、それだけでは何も学びにならない。
そもそも、なぜ絶望って悪くとらえてしまうのか? ご縁ってどういう出会いを意味して、君は結局浪人して何を学んだのか。
何一つ分からない(笑)。
1つでもいいからこういったことに踏み込んで書いていれば、こんな記事を書くことはなかったはずである。




私は、この記事を読むだけで頭が良くなる、天才に近づくことをコンセプトにして書いているのだが、これでは”感情任せ”のただただ内的欲望を満たすために書いた、好奇心を満たすために書いた記事になってしまった。


学問を学ぶとは、そういった自分の感覚ではなく、その感覚をいったん置いといて、他者が学問に対して向き合った感覚を学ぶことである。
それは、別にすべてを他者に合わせる必要はないが、ここは自分の考えだけでは到底無理というものを、敬意や畏れをもって学ぶのである。
そうして学んでこそ、”自我”が確立され、勉強が楽しくなっていくのである。
小林秀雄は、古典の素読を大切にしたほうがいいと人間の建設で書かれているのだが、要は、自意識を挟まずに、古典をじっくり探求することで後から「こういうことだったのか」と分かる。
その瞬間に、感覚が変わっているのである。
そういう風に、自分の欠点、短所、過去を客観的に分析することを皆さんにも勧めていきたい。
そのための学問であるから。





終わりに

いかがだっただろうか
学問って、単純なようで意外と複雑だなと感じただろうか?
ちなみに、岡潔は、自分は何もわかっていないということを悟ることがぼんやりとした不安を脱却する方法であると述べているのだが、全くその通りであると思う。ネットでなんでも調べられる時代において、「自分ってできてる」とか思いがちである時代だが、そうなるとネットで解決できない問題が出てきたときに困ってしまうのは自分自身である。人に頼られる人はそういうネットでは解決できない、AIにはできないことを徹底的に向き合った人なのだろう。次回もお楽しみに!


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