感情は自分だけのものという話。

こんばんは、焼却炉です。綺麗なパフェを崩す瞬間が最近好きです。今日も今日とて心のモヤモヤを言語化して整理していきたいと思います。よろしくお願いします。

※はちゃめちゃに個人的見解しか書いてませんので、読んでて気分の悪い人は読まなくていいと思います。気分を害した責任はとれません。ご注意を。


人間は個体であるということ。

人間誰しも(じゃないかもしれないけれど)こうだったら良かったのに、あの人がうらやましい、なんで自分はこれが出来ないんだろう、なんて思うことは多々あるだろうし、どのような人生を送ったかも違うからスタート地点だって違くて、なんであの子は……って思うこともあるだろうと。その感情を撒き散らしさえしなければ心の中で思うのは勝手で、別にいいと思う。でもそれを撒き散らした瞬間にその感情は毒ガスみたいになっていくんだろうな。結局人間誰しも孤独で自分のことでいっぱいいっぱいだから、自分の不幸以上の不幸はなくて、自分の辛さ以上の辛さはなくて、それを吐き出す人間と吐き出さない人間とという違いなだけなんだと思う。


劣等感の踏み台にされるということ。

お金を持ってるから幸せなのか、勉強や運動が出来るから幸せなのか、人それぞれ価値基準は違うからなんとも言えないけれど。でもそれはあくまでも結果であって、お金を稼げるようになる過程、勉強が出来るようになる過程、運動ができるようになる過程、そういうものがあって、初めて大体なるようにして結果が出ているのだと。勿論初めから何もかも揃っていた人もいるだろうし、自分の能力のせいではなく、環境によって辛い思いをしている人もいるだろう。でも、だからといって、関係のない他者を踏み台にして、劣等感に飛び込んで、優しい言葉でひっぱりあげられようとするのはやめてほしいなと思う。だってその他者って、その人の劣等感を生み出す原因じゃないのに。悲しみの根源に関係のない他者を巻き込まないでほしい。その人の悲しみだとか怒りだとかはその人だけのものであって、その感情を発現するのに関係の無い他者を巻き込む必要はなくて。その人は何をもって他者と比べて辛いと言うんだろう。幸せそうに生きているだけ、努力している姿を見せていないだけ、辛い顔を見せないだけ、それだけでなぜ自分より幸せそうだと思って、劣等感の踏み台にするのだろう。言わないだけで、毎日暴力に怯える日々を過ごしているかもしれない、命の危険と隣り合わせで生きているかもしれない、ご飯の味を感じられなくなるくらい心が麻痺しているかもしれない、自分のことでいっぱいいっぱいなのは構わないけれど、自分の心や体が踏みにじられて辛いというのに、関係のない他者の心は踏みにじってもいいのかな。他者の心を踏み台にして味わう劣等感という薬の効果時間って一瞬だと思うけれど。自分が頑張ってきたって言うなら、その頑張りを言うだけでいいのに、どうして他者と比べて辛い思いをして頑張った!と比べるのだろう。


「可哀想」という悪口。

「可哀想」という言葉は世の中に溢れているけれど、どういう気持ちで使っている人が多いんだろう。私は「可哀想」っていう言葉はバカにする時にしか使わない。大体憐れみの言葉って、人間関係の立場のバランスが崩れてどちらかが下になっている時しか出てこないと思う。自分が安全な所にあって、可哀想と言える余裕がある立場でしか言えない。可哀想という言葉をかけ続けられている間は、自分は下の立場なんだな、と思ってしまう。「可哀想だから○○してあげる」これをしてもらえる期間ってどれくらい続くんだろう。二十歳すぎれば只の人。皆最後は骨になるように、もう終わりに向かって進んでいくしかできない人間は、当然顔も体も能力も衰えていく一方だと思う(一部例外あるかもしれないが)。それらが衰えて、してあげる価値が減っていったときに、いままでしてもらっていた人達はどうやって生きていくんだろう。賢い人はきっとしてもらっている中でも色々なものを蓄えて、しっかりと生きていくのだろうけど、そうじゃない人はどうするんだろう。


所詮井戸しかない。

この世の中に大海なんてものはない、どこかで聞いた言葉だけど確かにそう思う。井戸の大きさが違うだけ、井戸の中に何があるかが違うだけ、皆それぞれ自分の井戸があって、人間は井戸の中から声を出してコミュニケーションを取っているだけ。だからそれぞれの井戸の中身なんて知らないし、井戸の中からの声だけ聞いて、勝手に恵まれているから大海にいるのだと思い込んでいるだけ。だから自分の気持ちなんて誰も分かってくれない、というのはぶっちゃけ当たり前の話だと思う。だってそう言い放っている人だって、他の人の気持ちなんて考えてないし、聞いたって分かりもしない。お互い井戸の中に居るからこそ、話し合って相手の井戸の中をできる限り詳細につかむしかない。自分の井戸が小さいとか、何もないというだけで、他者の井戸の大きさは自分より大きいはず、何かあるはず、そう決めつけて自分のことを可哀想な人間だと思ったところで、時間が消費されて、最終的に本当に可哀想な人間になるだけで。そうなったときのその人の価値っていくらなのかな。

何も知らない井の中の蛙にならないように、気を付けて生きていかないと。まだまだやりたいことはあるのだから。

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