才能という死神の話。

こんばんは、焼却炉です。最近果物が美味しくて果物への投資が凄い。

今日はちょっと考えさせられる出来事があったので、その考えたことを言語化して整理していきたいと思います。よろしくお願い致します。


「才能」という死神は美しい姿をしている。

「才能」だとか「長所」だとか「スキル」だとかそういうものを求めて生きる人がまるでウォーキングデ○ドのように徘徊するこの世の中であるが、この「才能」というものは指の間から流れ落ちていく水のように、気づいたら自分の手の内から抜け落ちていくものであり、掴んだと思ったのに何も掴めていなかった幻のようなものであり、それでいて探し求める人が後を絶えない、美しいものなのだと。

自分だけのものにしたいのに、自分以上の才能が現れればあっという間に奪われてしまって。そのうえその才能が自分だけのものなのかどうなのかを決めてくるのは他者の評価であることが圧倒的に多い。

「才能ないよ」「あの人の方がもっと上手いよ」

こんな言葉を吐かれて。心を壊される人もいるだろう。

それでも「才能」という死神を求め続けるのは他者に認められたいという承認欲求が常に付きまとってくるからだ。認められたいと思うことが悪い訳では無い。けれどその承認欲求がゆえに得意なことを、努力してきたことを、自らの手で燃やしてしまうことが虚しくて仕方がない。


時代に合わないだけという残酷。

某謎の生物が先生をする教室の漫画で、時代によってはとんでもない活躍をしていたであろう才能があった。普通の生活であれば生かすのは難しい才能が。

生きている時代が違ってさえすれば。

そういうのはどれほど簡単でどれほど残酷だろうか。生まれたことが間違いかのようにさえ思えてくる。そんなはずではないのに。


夢を見るのが幸せか。

けれど一体どうしたらいいのだろうか。才能について悩んでいる人になんて声をかければ良いのだろうか。夢を見続けられたら本人は幸せかもしれないけれど、現実を早くに知らせることも大切ではあって。きっと「才能がない」と言い放つ人は現実を知って別のことをしたほうがいい、親切心という自己満足が働くのだろう。そしてきっと自分が才能について悩んでいたんだろう。

現実を見ろ、という言葉の存在は大切だけれど、甘い夢ならずっと見ていたいのが人間の性で。夢を見続けられる限り見るのと、現実を知るのと、一体どちらが幸せなのだろう。私はなんて言葉をかけていれば良かったのだろう。未だに模範解答は見つかっていない。

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