我々は「まなざされている」
『地獄とは他人のことである』
1度は聞くことがあるのではないだろうか?
これはフランスの哲学者サルトルの言葉である。
言葉が汚い、柔らかく言えば言葉が強いと言ったところだろうか?そんな言葉の強いひとと会う度にこの言葉を思い出す。
さて、地獄が他人とはどういう意味だろうか?
サルトルの実存主義をもとに考えてみよう。
実存主義においてこの世界で生きているにあたり実存が本質に先立つとされる。
実存が本質に先立つとは
人間はあとになって初めて人間になるのであり、人間は自らが作ったものになる。
つまり、人間はまず先に実存しており、自分の本性はその後で、自分自身でつくるものだということである。
では、私たちが存在するということは何に影響されるのだろうか?
サルトルは世界において自身と物を「即時存在」と「対自存在」の二つに分けた。
「即時存在」とは世界、「対自存在」は意識に置き換えるとわかりやすいかも知れない。
しかし、この世界での関係は自身と物だけではなく他人が存在する。
そこでは「対他存在」という他者から見られた対象としての私が存在することになるのだ。
つまり、自分の意識の中に「自分に対する」存在としての「対自」だけではなく、「他者に対する」存在としての対他があるということである。
この「対他存在」を作り出すのは他人の「まなざし」だ。
そんな「まなざし」を向けられることをサルトルは他有化と考えた。
サルトルの考えの筋道はこうだ。
私たちは常に他人の視線の下にさらされており、
他人の「まなざし」によって私たちの世界は変えられている。
言葉というのは受け取り方しだいで意味合いは簡単に変わってしまう。
もちろん話し手の言葉遣いやイントネーション、表情など、五感で得られる情報などによる原因もあるだろう。
私がそのつもりで言ったことはなくても「うざい」「バカにされている」だのと感じることはあるやもしれない。言葉足らずなところもあるやもしれない。その思い込みによる失敗だってたくさん経験してきた。
その一方で、「まなざし」ている側も私たちに「まなざされている」ことに気づいて欲しい。
あなたが「バカにされている」と感じたならそれも本物の眼差しだろう。
そうした「どうまなざされているか」を考えることは言わば「他人にどう見られているか」という自分の客観視である。
さて、
私もしかりみなさんも然り
人にどう「まなざされている」だろうか?
私たちは他人の「まなざし」により新しいことに挑戦しようとしたときそれを恥ずかしいと感じたりすることがある。その「まなざし」が自分の勘違いであったとしても「まなざし」により悩んでしまう。
そんなあなたにこの言葉を送ろう
『あなた自身がアナタをバカにしている。』
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