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支援の悪い癖

こんにちは、ALP港南台です。
人は様々な固定観念を持っています。
なかには教育の影響でできた場合もあります。

もちろん固定観念が悪い、というわけではありません。
ですが囚われすぎてしまうと、物事の本質を見失う可能性があります。

今日は、そんな固定観念に囚われてしまうと本質を見失ってしまう、というところから、私たちの考える支援のお話をしたいと思います。

私たちが受けてきた教育

私たちは看護学校やカウンセラー養成所で、問題行動の背景に目を向けるように教育されてきました。

「死にたい」と言われた時は、その背景にある「辛い」という気持ちを受け止めましょう。「SOSを発しているんだ」ということを理解しましょう、という具合です。

私たちはその教えを忠実に守り、問題行動の背景を想像して、そこに焦点を当ててカウンセリングをしてきました。

ですが、どうも手ごたえがないというか、自己満足の範疇を超えられていない感覚に襲われていました。

いろんな関係の支援者とのケースカンファレンスでも、問題行動の背景を想像し、想像された背景に対しての支援方法が話し合われるのが現状です。そのせいか、つかみどころのない話し合いになってしまいます。

まるで現実的ではない結果になることも…。

現実にそぐわない支援

先日も「朝、起きられなくて、仕事が続かない」というケースの話し合いがありました。

朝、起きられないのは虐待のトラウマによるものではないか?

そのような背景を想像し、想像でしかないトラウマに対してどうするか、という話し合いになり、まったく建設的ではない話し合いをしていました。

想像上のトラウマに対して話し合いを進めるのですから、まるで雲をつかむような感覚です。

朝起きられないのなら、朝起きなくてもいい仕事をすればいいだけではないか、とも思います。しかし福祉というものにはまり込んでしまうと「トラウマを何とかしないといけない」という思いにとらわれてしまうのだ、と痛感しました。

受けてきた教育により、固定観念に囚われてしまうのかもしれません。
問題の背景を想像することがある種の癖となって、それが支援を複雑なものにしているのではないか、と感じます。

こういう言葉の裏には、こういう心理が隠れている。

こういった教育を受けてきたことで、想像を膨らませすぎて、困っていることに対する支援がぼやけてはいないでしょうか。

性被害を受けた子は解離性障害になりやすいなど、どこかで聞いたことに当てはめて、その問題行動を理解した気分になってはいないでしょうか。

そのせいで問題を見る目が曇ってしまっている、そんな気がしてなりません。

「克服」ではなく「共存」を

私たちは発達障害のある子への対応について相談を受けることが多々あります。
しかし話を聞いていると、障害を克服することに目が向けられすぎているような気がしてなりません。

障害を克服しようとするのではなく、上手に共存していく

そのような意識を持てば、より良い支援ができるのではないか、と考えています。

障害に視点を置くのではなく、困っていることに視点を置く。
困っていることに対処できるなら、障害は障害ではなくなるのではないでしょうか。

もちろん問題の背景を想像することも大切です。
ですがそれにより、すべき支援がずれてしまっては元も子もないと思います。

本当に大切なのは、よく見て向き合い、具体的な解決策を提示していくことではないでしょうか?


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