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不器用な先生 727

前回

 四時を少し過ぎたところでディスカッションを終わりにした。長く討議を重ねても、疲れるだけで意味はないことを全員が理解していたからだった。それでも三時間近く話していた。いつものゼミの倍以上の時間をかけて話していたことになる。
 今回の目的は、《理解力》に対して種々の観点から話すことにあった。結果を認識論という立場から観ると、まったく見当外れのディスカッションになってしまった、そう結論付けることもできるかもしれない。

 学生たちもそれは判っていたことは疑いない。しかし、全員が有意義なディスカッションをしたと思っているはずだった。なぜなら認識論をひとつの方法と観るならば、そこで得た結果を利用して物事を的確に判断する礎を構築していくことが主たる目的だからなのだ。
 カントの純粋理性の追及の果てには、道徳そのものとその行為をいかに法として完成するかがあった。

 そのことは、この一年を通じてゼミの中で学生たちも十分に体得していたと、ぼくは確信している。
 だからこそ、テキストとして真の救済、真の分配を考え理解するためのものを、学生たち自身が選びだしたのだった。

 これから帰宅するといつもより遅くなって、五時に半ばになるだろう。
 彩や環には、予め遅くなることは言っておいたが、これから帰宅することだけを伝えておくことにした。

 電話には彩が出てくるとばかり思っていたが、環が出てきた。そしてこう言った。
「今日の幸太郎は、まともな話をすることができたかしら。幸太郎もパパと同じで、当意即妙は苦手だから…」
 笑い声だった。
 たしかに幸太郎には、突然のテーマの変動を嫌うところがある。それは、ひとつのことを深く考える性格だからだろう。
 その点では曽根君のほうが柔軟なのかもしないが、環の相手としては幸太郎のほうがよく似合う…

 帰路ではそれを何度も思い浮かべていた。そのために自宅の傍のバス停で降りるの忘れそうになっていた。
 そんなぼく自身が愉快でならなかった。

つづく

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