「毅然としなきゃ」の呪い

アニメ「はたらく細胞」黄色ブドウ球菌編を観てると、赤血球ちゃんが初めて後輩を指導する回。そこで興味深い言葉が。「先輩として毅然としなきゃ」。指導者は毅然として振る舞わねばならぬ、という呪いが、こんな子ども向けアニメにも登場するんだなあ、と感心した。


でもなんで毅然としなきゃいけないんだろう?「カッコいい先輩は毅然としてる」というイメージがあり、「自分もかっこいい先輩だと後輩から思われたい」という願望を抱いたからだろう。しかしそこがすでに間違いの元のような気がする。


後輩に対して毅然としてる、というのは、後輩のために何の役にも立たない。後輩のためになることは、後輩が知らないことを伝え、できないことがあればフォローし、後輩が自分一人でできるように育てること。自分が後輩からどう見えるかなんて、どうでもよいこと。それは後輩指導と何の関係もない。


なのに赤血球ちゃんは、自分がどう見えるかというところに意識をフォーカスしてしまう。自分が教えなければ、というところに意識をフォーカスし過ぎて後輩が何を知り、何を知らないのかを観察もせず、頓着もせずに自分の知ってることをただベラベラと羅列してしまう。後輩を観察できていない。


意識を全集中させる場所を間違えている。力こぶの入れどころを間違えている。大切なことは「自分がどう見えているか」ではない。後輩の「できない」と「できる」の境目を把握し、どうしたら「できない」を「できる」に変えることができるのか、そこを必死になって考えることが大切。


そしてできれば、先輩である自分に言われたからできた、ではなく、先輩から指示されなければできない、ではなく、先輩である自分がいなくともできるようになるにはどうしたらよいか、を考えること。そのためにはどんな手順で導くとよいのか、その段取りを工夫すること。それが大切。


そうしたことを考えているならば、自分がどう見えてるかなんて考えるヒマはないはず。それに、自分がかっこよく見える必要なんかない。大事なのは後輩が育つこと。そう考えると迷いはなくなるし、見栄をはろうという気もなくなるように思う。


人間は、「相手にこんなふうに思われたい」という願望を持ちがち。けれど、どう思われるかは、自分ではどうしようもない領域。なんなら思う相手にもどうにもならない領域。どうにもならないことを考えてもムダ。


ならば、まだしもどうにかできることを考えたほうがよい。後輩の理解度を推し量り、後輩がどんなふうに接せられたらやる気を高め、学びを深め、早められるかを考えたほうが建設的。それができるなら、自然と「いい先輩だ」になるのだと思う。

頑張れ赤血球ちゃん。


追伸。

「先輩は毅然としなきゃ」は、どこかで見聞きして信じ込んでしまった「思い込み」だと私は見ています。目の前の後輩指導という現実にそぐわない「思い込み」です。ならば現実を優先すればいいのに、つい「思い込み」を優先してしまう。現実よりも「思い込み」を優先する場合、私はその「思い込み」のことを「呪い」と呼んでいます。「こうあらねばならない」「こうあるべきである」という「ねば・べき」は、しばしば観察することの重要性より、「思い込み」を重視する誤った行動を引き起こします。これが「呪い」です。


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