優等生は「テヘペロ」力を身に着けよう

私は子どもの頃、失敗するとひどく落ち込む子どもだった。
中学生になった頃、父親から言われた。「お前は失敗するとひどく落ち込む。けれど周囲からしたら面倒くさいだけ。「あはは!やっちゃった!すんません!」って笑うくらいのほうが頼もしく思えるものだよ」
私はそれもそうか、と思った。

今思えば、ひどく落ち込んで見せるのも「これだけ反省して、自分を責めてるんだから、これ以上僕を責めないでね、もし責めたらそれはあなたが極悪人ということだからね」という防御壁を設けていたのだと思う。責める人を道徳的に反撃する構えを見せていたわけ。そりゃ面倒くさいわ。

それから何年もかけて、失敗したら落ち込むクセをなるべくやめ、代わりに「あー!やっちゃった!ごめーん!てへぺろ!」と、朗らかに笑って謝るスタイルへと移行した。すると周囲は「こいつ失敗したくせに」と思いつつ、「しゃーないな」と笑って許してくれることが増えた。切り替えが共に早くなった。

恐らくなんだけど、落ち込むヤツは同じ失敗を繰り返す不安を印象づけるらしい。だって、あまりに落ち込んでるからアドバイスしにくい。もしアドバイスなんかしたら責めてると思われかねないと思ったら、アドバイスもできやしない。すごく反省してるようだけど、結局同じ失敗を繰り返す恐れを感じる。

これに対して失敗しても笑う余裕がある場合は、アドバイスを受けとめる余裕も感じるし、笑えるということは、失敗を直視する余裕もあるということだから、よく観察し、「これが原因だな」と突き止めることもできる。だから、失敗しても笑って、だけど同時に謝れるヤツなら、次は大丈夫だろうと安心できるのだろう。

話が変わるけど先日、こじらせ東大卒の話をしたところ、「周囲が東大卒に勝手に期待し、それにしては大したことないと言ってからかう、その周囲の対応がこじらせの原因ではないか」という指摘が。まあ、それも一理あるが、周囲のせいにしてもどうしようもない。本人にできることはないだろうか。

私は、笑うことだと思う。「そうですねん、この程度ですねん!あはは!」その方が人間の大きさを感じるし、できないことは次できるようにしてやろうという隠れた前向きさも感じるし、けれど失敗や短所を認めるゆとりもあるし、事実を直視して次に活かす観察力も感じさせる。笑いにはそんな力がある。

こじらせ東大卒は、子どもの頃の私に似ているように思う。真面目に取り組む姿勢をほめられてきたものだから、ともかく何でも真面目に受け取ってしまう。「これで東大卒?」と言われたら、「この程度と思われて悔しい」とまともに受けとってしまい、ムキになってしまう。余裕もゆとりも感じられない。

マジメ東大卒は、笑いの力を学ぶヒマがなかったのだろう。マジメに勉強すればみんながほめてくれる。そのために、マジメ一本槍になってしまったのだろう。そのために、他人が愚弄してきたときに笑い飛ばすというテクニックを磨くということを怠ってきた可能性がある。

また、欠点を指摘されたときに、「東大生は完全無欠でなければならぬ」という強迫観念を抱いてしまっているためか、欠点をなくす方にばかり努力してしまう習慣がついたのだろう。しかし人間は、長所もあれば欠点もあるのは当たり前。自分よりも他人が勝れている点があるのは当たり前。

自分よりも優れた面を示す人がいたら素直に教えを乞う。その方が人との付き合いはうまくいくし、互いに敬意を抱き合う関係を構築しやすい。相手が従、自分が主、という関係性ばかり求める人は面倒くさい。人間は、自分も尊ばれたい生き物。しかしこじらせ東大卒は、自分だけ尊ばれる関係性を求めがち。

互いに敬意を抱き合う関係性を構築するには、自分よりも相手が優れていることを素直に認め、それに驚嘆するゆとりが必要。そのためには、マジメよりも笑う力が必要。できない自分を笑って、「まあ、それも自分。そんな自分が愛おしい」と笑う力が望ましい。

マジメな生徒は、笑いの力を磨く余裕を持たずに大きくなってしまったところがある。けれど笑う力は、テクニックでしかない。心がければ身につけられるもの。テクニックとして修練し、身につければ、こじらせ東大卒の汚名から逃れ、さすがは東大生、そのゆとり!となるだろう。

知らないことは知らないと言える。できないことはできないと言える。人の優れたところを認め、教えを乞うことができる。失敗したら笑って謝れる。欠点を認めることができる。そんな人になれたら、こじらせ東大卒の汚名は返上できるように思う。

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