子どもの遊びからリカード「比較優位説」を見直す

私が子どものころ。公園に行くと年かさの兄ちゃんが「一緒にキックベースボールをやろう!」と声をかけてくれて。一番上は小学6年生、小さいのは3歳。面白いのは、年齢差があってもみんなが楽しめるようにルールを工夫したこと。6年生には容赦なく速球を投げるけれど。

3歳の子の場合は、止まったボールを蹴るというルールに。守備側は、ボールを捕っても1塁に投げるのに5秒数えて。そうして3歳の子も楽しめるように工夫し、体力や技能の差を超えて、みんなでワイワイと楽しんだ。子どものこうした創意工夫の知恵、大人も学ぶべきところがたくさんあるように思う。

先進国と途上国が貿易すると、先進国に有利、途上国に不利になりがちだった。自由貿易をして、互いに得意な商品を輸出するならば、互いにウィンウィンになるはずだ、という理論を、リカードと言う人が唱えた(比較優位論)。ところがどうも、理論とは違って途上国に非常に不利になったりする。

産業革命で衣服を大量生産できるようになったイギリスは、インドに安値で輸出した。このおかげでインドの繊維業はボロボロに崩壊した。イギリスが事実上運営する会社、東インド会社は「あんたら経済が分かっていないよ」とインド政府に言い、自分たちがインド経済の舵取りをし始めた。

インドは原料になる木綿を生産し、それをイギリスに輸出する。イギリスはそれで繊維を生産し、インドに輸出する。こうして、得意な分野で住み分けて互いに輸出・輸入し合えば、双方にとってハッピー、というのがリカードの比較優位論だった。しかし実際に起きたことは。

原料の木綿は安く買いたたかれ、生産国のインドはちっとも儲からず、イギリスは安い原料でコストを抑え、糸や布を生産してインドに売りつけた。これによりインド経済はますます弱体化し、イギリスに吸収合併される原因ともなった。

アメリカは世界一の農業国といえる国。小麦やトウモロコシを大量生産し、海外に輸出している。さぞかしアメリカの農家は生産性が高いのだろう、と思いきや、仔細に観察すると、意外な姿が見えてくる。四人家族さえ農業だけでは養うことができないという実態が。

西部劇の時代のアメリカは1農家が生産できる余分の食料(家族を養う以外の余分の食料)は12人分だったが、現在のアメリカの農家なら129人分の余剰食糧を作れる。生産性は10倍以上。これならさぞかし儲かるだろう、と思いきや。奥さんに働きに出てもらい、自分は政府から補助もらってカツカツ。

「雑食動物のジレンマ」では、アメリカの平均的な面積を栽培する農家が、農業だけでは4人家族を養えず、奥さんに働いてもらい、自分は補助金をもらい、それでやっと養える姿を描き出している。なんと、トウモロコシの価格は、それを生産するのにかかった経費より安い。

4人家族を養うどころか、作れば作るほど赤字になるほど安い穀物は、アフリカの貧農でも太刀打ちできないほど価格が安い。だから、アフリカの人々はアメリカなどの先進国が生産した安い穀物を買い、自国で栽培される穀物を買わなくなる。このため、穀物を栽培する農家は農業をやめるしかなく。

かといって、途上国だと仕事らしい仕事がない。このため、コーヒーやカカオなどの商品作物を育てるプランテーションで賃仕事をすることに。しかしそれらの商品作物の価格が下落すると、賃金が安くなり、安いはずのアメリカからの穀物さえ買えなくなってしまう。こうして、飢餓の発生しやすい素地が。

アフリカで飢餓が起きやすい原因の一つに、安すぎる穀物がアメリカなど先進国から売りつけられることが原因している。安いからつい買ってしまう。自国で生産するのを諦めてしまう。しかしいざ戦争が起きたりしてうまく輸入できなくなると、作っていないから途端に飢えてしまう。

リカード流にいうなら、小麦やトウモロコシといった穀物はアメリカの方が安く作れるから、得意なアメリカなど先進国に任せ、コーヒーやカカオといった南国でしか育てられないものを作って輸出したら、互いにハッピーなはずだ。それが比較優位説。けれど実際には、ハッピーなのは先進国ばかり。

リカードの比較優位説を説明するのに、次のようなたとえ話が行われることがある。会計事務も得意な弁護士がいたとする。けれど自分で弁護士活動も会計事務も全部やるとなると大変。でもここで、自分ほどではなくても会計事務ができる人を雇えば、その負担が減る分、弁護士稼業に精を出せる。

すると、弁護士稼業に集中できる分、売り上げが伸び、会計事務を担当する人に給料を払ってもまだ得の方が大きくなる、というリクツ。これがリカードの比較優位説。ここまでしか聞かなければ、会計事務の人も弁護士も双方ともにハッピーに思える。しかし。

もし弁護士が、会計事務の人に給料を出し渋り、低賃金で雇おうとしたら。会計事務の人は生活に困窮するだろう。しかも世の中が、そうしたケチ臭い経営手法ばかり考える経営者ばかりであったら、どこにいっても貧困に苦しむことになるだろう。

しかも、そうした給料出し渋りの経営者ばかりだと、経営者以外は貧困層になってしまうから、弁護士に相談できる人も減ってしまう。いわゆる「合成の誤謬」で社会全体の景気が悪くなり、弁護士事務所も、売り上げが伸びなくなるだろう。

そう、リカードの比較優位説が「みんなハッピー」になるには、一つの前提がある。
「自分だけが儲けようとせず、相手も儲かるようにすること。」
この前提が崩れ、自分の取り分を増やし、相手の取り分をなるべく少なくしようとした時、全体としての富はむしろ減る方向に動き、貧富の格差も大きくなる。

新自由主義(的思潮)の問題はここにある。仕組みを悪用して利益を掠め取ることを「ルールの範囲でやっているのだから問題ない」と開き直り、できるだけズルをして儲けることを「賢い」とか「努力している」とか「リスクをとっている」とか言ってカモフラージュしてしまう。

冒頭の子どものキックベースボールで言えば、小学6年生のルールを3歳児にも適用し、蹴るに蹴れないほどの速球を投げ、一塁にも速攻で刺し、3歳児がまったく走塁できないようにするようなもの。これが新自由主義。楽しめるのは強者だけ。そしてこれを「生産性がよい」とか「効率が良い」と呼ぶ。

私は、こんなやり方、知恵がない、と思う。もっと楽しんでやれるはずなのに。双方にとってウィンウィンの関係、社会を作れるはずなのに。3歳児から小学6年生まで、圧倒的に力が違う者たちでも一緒の地平で楽しめるその知恵を、なぜ大人が再現できないのだろうか。

「貧しいアフリカの人たちに服を送ろう!」という「善意」の行動がある。先進国から大量に服が送られ、アフリカの人々は1枚6円で服が買えるという。安くていいじゃないか、と思われるかもしれない。しかしこのため、アフリカの繊維業は崩壊してしまったという。
https://president.jp/articles/-/53225

服を作ったり修繕したりという衣料関係、繊維業の人たちの多くが職を失ってしまった。収入の道が経たれ、路頭に迷ってしまう。しかし他にろくに仕事がないのが途上国。仕方なく、低賃金の仕事につかざるを得ない。こうして貧しさから抜け出せなくなってしまう。

安売りすることで、相手国の産業を崩壊させる行為をダンピングと言う。残念ながら、この行為は先進国の発言力が強すぎて、途上国は取り締まれない。食料も衣服も先進国から安いものが送り込まれ、それを生産して稼いできた人たちの仕事を奪い、さらに低賃金化を進める問題を起こしている。

今、日本はコメを安く生産させようと、コメ農家や農林水産省、JAなどを攻撃する言説が盛んになっている。しかしこれ、幸せになるのだろうか?アメリカを見習って穀物を安く生産しよう、というのだけれど、アメリカは費用も賄えないほど安いのに。作れば作るほど赤字という作り方なのに。

日本はかつて、コメを高く売っていた。これ、見方によっては「フォード流」ともいえる。
戦前、フォードは、従業員に破格の給料を支払った。通常の3倍の給料。しかも週休2日、1日8時間勤務。低賃金で長時間労働が当たり前なブラックな時代に、破格の待遇。

フォードは、他の工場主は経営者たちから批判されまくった。そんなことで経営がうまくいくはずがない、労働者をつけあがらせるだけだ、儲からなくなるぞ、と。ところが逆に、自動車の不具合はほとんどなくなり、生産量も劇的アップ、儲かって仕方なかった。しかも。

従業員が自社の自動車を買ってくれるお客さんになった。高い給料は、会社の業績をさらに伸ばす原動力にもなった。
こうしたフォードのやり方と、かつて、高かったコメの価格の時代と似ていると言えないだろうか。コメを高く買ってもらえたからコメ農家は儲かった。その儲けで消費を沢山する。

消費をするから景気も良くなり、社会全体も給料が上がる。給料が上がるから消費も増え、だから会社の業績も伸び・・・という好循環が生まれた。モノを高く売ることは必ずしも悪ではない。むしろ、社会全体に富を行き渡らせる効果をもたらすことがある。

しかし今のように、コメを安く作らせようとしたら、農業法人は従業員の給料もカットしなければならない。すると、お金がないから消費を控える。社会にお金が回らず、景気が悪くなる。モノの価格を安くしようとすると、お金が回らなくなる恐れがある。

リカードの比較優位説は、自分だけが利益をむさぼろうとするのではなく、相手にも正当な利益があるように心配りするとき、初めて成立するように思う。そのことをなぜかすっ飛ばして、自分だけがめつく利益をむさぼる道具としてこの理論を使う人が多すぎるように思う。要注意。

弱者も含めて、笑顔で暮らせる社会を。しかもそれでいて甘えではなく、アクティブに。冒頭のキックベースボールは、3歳児なりの必死のパフォーマンスを引き出すだろう。小学6年生も、持てる力を最大限引き出して塁に出ようとするだろう。ルールのデザインがうまいと、それが可能になる。

弱者に配慮すれば社会が停滞する、福祉は仕方なしにやるものだ、という発想が新自由主義好きの人には根強い。しかし私は、それは思い込みのように思う。子どもがキックベースボールのルールを巧みに設計したように、全員のパフォーマンスを引き出すことは可能だろう。

私たちは大人だ。子どもに負けない知恵を出そうではないか。誰かを見捨てるのではなく、全員が笑顔で暮らせる社会を。楽しんで生きていける社会を。それをどうやったらデザインできるのか。一緒に考えていただきたい。

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