気力の手綱さばき…「フランダースの犬」から学ぶ

気力が湧かないとき、次を気を付けている。
①意識的に余裕をこじ開け、休むこと。
②気力はそのうち湧いてくるもんだ、と、待つこと。
③気力のない自分を許すこと。
④気力が湧いても使い切らないこと。
トシをとって、何度も無気力にさいなまされた結果、そうするほかないということに気がついた。

気力を失うときはたいがい、「あれもしなくちゃ、これもやらなきゃ」と気持ちが追いまくられている。実際の業務をこなすだけでも精一杯なのに、心はすでに次の業務を早くやらなきゃいけないのに、と焦る気持ちでいっぱいで、目の前の作業に集中できない。集中できないから効率がひどく悪い。

効率が悪いからいつまでたっても終わらない。次の作業に移っても「また次の業務をやらなきゃ」と、ますます心に焦りが重くのしかかり、ついに心がつぶれる。耐え切れなくなる。ウツと同じ状態になり、気力が湧かなくなる。世の中が灰色に見える。感動が失われる。

それでも気の焦りだけはある。「あれもやらなきゃ!これもやらなきゃ!なのに何呆けているんだよ!それどころじゃないだろ、このどあほう!」と自分を罵る声が心の中でこだまする。至極ごもっともなので言い返せない。自分で自分を責め、それが心をどんどん傷つけ、ますます気力の湧きようがなくなる。

何度も何度も繰り返しその状態に陥った結果、だんだん経験則が見えてきた。あれをやらなきゃ、これもやらなきゃ、という焦りの状態とは全く逆に、「あれもしなくていい、これもしなくていい、したいことだけしたらいい。ただし『何もしない』をなるべく最優先に」。

何もしない自分を許す。そして最大限、何もせず、休む状態を確保すること。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃを押しのけ、余裕をこじ開け、ともかく休む。休むときは意識的に休む。好きなこともほどほどにして、ともかく休む。しない、といったらともかく「しない」。なるべく何もしない。

すると、「これをやっとこうかな」と、気力の萌芽が少し芽生える。でもそのときいい気にならないように。全部やってしまうのではなく、欲求不満が残る程度にだけ手をつける。できれば、中途半端に終わらせる。ともかく休むを優先。

すると、使い切らなかった気力がちょっとずつ、次の気力の呼び水になる。少しずつ気力が湧きやすくなる。あれもやってみたいな、これもやってみたいな、という欲求が湧いてくる。「やらなきゃ」という責任感とか焦りのような受動的なものではなく、主体的な欲求。その欲求が、気力を生む。

そうした能動的な欲求が自然に現れるまで、手綱を引く。走りたがっている馬の手綱を引き「どうどう」と言い聞かせるような。そして、「やらなきゃ」という焦り、追いかけられるような受動的な心理が消え、それよりも「やりたい」という能動的な心理が支配的になった時。

気力の8分目で動き出す。必ず2割は残しておくように心がける。次の気力を培養する種菌にするために。
どうしても仕事上必要があって、気力の10割を使い切らなきゃいけないことがある。これをやると、気力を培養する種菌をほぼ使い切るので、気力の培養に時間がかかる。意識的に長めに休みを取る。

仕事が楽しいと、楽しいものだからついつい気力10割使い切って仕事してしまうことがある。しかし楽しいことに次第に「責務」が忍び込み、だんだん「楽しいからやっている」が「やらなきゃいけないからやる」にシフトしていく。すると、気力がどんどんすり減る。この失敗を何度も繰り返してきた。

気力は10割使い切っちゃダメ。常に種菌として少し残しておく必要がある。微生物学の研究者ならわかるだろうけれど、「植え継ぎ」が大切。新しい培養液に種菌を加えて微生物を増やすのが植え継ぎだけど、種菌を使い切るとうっかりしたら微生物がなかなか増えない事態に陥る。

それでも、気力は休みさえすれば湧いてくるから、待つ必要がある。しかし「やらなきゃ」という焦りと、「やらなきゃいけないのにお前は休んでばかり」と自分を責める「正義感」を放置すると、それらとの戦いだけで気力を削ぎ取られ、気力は回復しなくなる。だから。

「やらなきゃ」という焦りの声は「やらなくていーよ!」と笑って答える。「やらないお前はさぼりだ!」と責める正義感の声には「人間はサボってなんぼだ!楽しまんでどうする!ビバ!休み!」と言って、泰然自若に構える。青空を仰いで、ああ、いい気持ち、といった案配に。

自分を追い立てようとする焦りと、自分の怠慢を責める正義感を「まあまあ、落ち着け、待ちなはれ」と笑って静止し、「気力はそのうち湧いてくるから待ちなはれ。湧いた気力の8分目しかパフォーマンスは発揮できんのや。それ以上は無理があるんや」と言い聞かせ、そのルールに忠実になる。すると。

気力はまた徐々に、少しずつ湧いてくる。焦りや正義感が責め、追い立てるものだからすぐ動きたくなるけど、我慢。気力を必ず使い残す。特に量が少ないときは多めに残す。できれば全部残すように。動こうとするのに手綱を引く。すると、気力が徐々に充実してくる。

とある学生が、先輩学生の指導を受けていた。しかしとてもスパルタで、長時間の研究を強いられていた。そのため疲弊し、気力を失い、研究そのものが嫌いになっていた。
先輩学生が研究室を離れることになり、私がその学生の指導を担当することになった。私がまずその学生に命じたのは。

「もうじき夏休み。その間、研究室に来るな。遊べ。旅行したいなら旅行しろ。研究のことなんか一切かまうな」。
私が「命令」したことで、休みやすくなったのだろう。修士2年だったけれど、ものの見事に夏休みの間、一度も顔を出さず、その学生は遊びまくった。

9月に入り、研究室に戻ってきた。あんまり顔出さないからもう出てこないかも、とちょっと心配していたけれど、安心した。しかし表情や様子を観察すると、まだ研究への嫌悪感が残っているらしい。嫌悪感があるから、研究に能動的な感じがしない。そこで私は次の命令を。

「たとえ実験の途中であっても夕方5時になったら帰宅すること」。実験準備にもたつき、作業があと30分は必要だという状態であっても「はい、時間切れ~。終了~。また明日。ほら、帰った帰った!」と、必ず時間厳守で帰らせた。

そんな状態が1か月ほど経ったある日、学生が意を決したように私に頼んできた。「この実験、5時までに終わらせることができません。でもどうしても最後までやりたいんです。許してもらえないでしょうか?」私は「仕方ない、でも、なるべく早く終わらせるように。決して無理をしないように」許可した。

以後、目を瞠るような集中力で実験を進めるようになった。同時並行で複数の実験を進め、残りの半年で修士論文に十分なだけのデータを積み上げた。しかしそれでもやり過ぎないように、「無理をするな、休め」常に手綱を引いた。すると、修論まで気力が途切れることがなかった。

その学生さんの指導を通じて、それまでなんとなくこうではないか、という仮説を確認することができた。気力は使い果たしてはいけない。使い果たしたらなかなか湧いてこない。湧いてこない人間を責めたり追い立てたりしても、むしろ気力の泉を枯らすことになってしまう。

気力を失ったときは、休むこと。むしろ、休むことを命じること。仕事をすることを禁じること。やがて気力が湧いてくるけれど、一度枯れた気力はすぐ使い果たすので、気力を使い残す程度にしか負荷をかけないこと。使い残した気力が次の気力の呼び水になるよう、なるべく気力を使い残すこと。

たとえ気力を取り戻しても、手綱を引き、気力は最大で8割までしか使ってはダメ、というルールを定めること。それを超えそうになったら手綱を引くこと。ずっと8割なら使い果たして構わないということではなく、気力には波があるから、気力の湧かない日は負荷をグッと下げて多めに気力を残す緩急を。

こうした気力の手綱さばきを、その学生さんの指導を通じて学ばせてもらった気がする。以後、気力を使い果たさないようにする手綱さばきをなるべく意識的に気を付けている。スタッフや学生だけでなく、私自身にも。ただ、たまに仕事に追いまくられて、忘れることが今でもあるけど。

もしあなたが、すべきことをしていない、自分はダメな人間だ、と自分を責めているのだとしたら、それはムダだからやめたほうが良い。とてもドライな見方をすると、自分を責めることで「こんなに自分を責めているから、他人はこれ以上責めないでね、責めたら極悪人だからね」と脅しているようなもの。

そうやって他人を脅し、自分を守った上で、しかも責めることにより気力の泉を自ら枯らしているわけで、ちっともいいことがない。だから、まずは自分を責めることはムダなのでやめることがおすすめ。気力のない自分に鞭打っても何一ついいことはない。自分を許すこと。しゃーない、と。

自分を責める焦りや正義感に対しては、「気力は必ず湧いてくる。それまで待ちなはれ。ないもんはないんや。ないときに出せ言うてもそれは無茶や。待て。待てば必ず湧いてくる。湧くまで待て。そして湧いても待て。使い切ったら種菌がなくなるからや。貯めなあかんねや」と制止する。

湧いてきた気力も使い果たさないように、なるべく余分を残す。競走馬は、走りたい、早く走りたい、という気力が充実した状態を維持するために、手綱を引くようだ。その時のためにとっておく。それと同じように、気力がたまるよう、手綱を引き、使い切らないように気を付ける。

「フランダースの犬」でパトラッシュは、前の飼い主に「働け!」と常に命じられ、鞭で叩かれ続け、ついに生きる気力も失い、死にかけた。ネロはパトラッシュを介抱し、なんとか一命をとりとめた。
パトラッシュは十分に体力を回復すると、自らミルク壺を運ぶ荷車を自分にひかせろとねだった。

ネロは「無理しなくていいんだよ」といたわるが、それがますますパトラッシュの気力を湧かせたのかもしれない。前の飼い主の時とは見違えるように、重い荷車も軽々と引けるようになった。しかしネロは常にパトラッシュをいたわり、無理をしないように気を配っていた。だからかもしれない。

ネロのパトラッシュへの接し方は、気力を失った人への接し方として理想的な気がする。ともかく休ませる。そして気力が湧いてきても、すべてを使い切らせない。いたわり、手綱を引き、余力を残す。すると、その余力が回復の力となり、気力に強い筋力がついてくる。気力の絶対量が増える。

これは他人に対してだけでなく、自分に対しても必要なように思う。ネロのパトラッシュへの接し方は、気力を保ち、充実させ、むしろ気力の総量を徐々に増やす効果もあるように思う。筋力トレーニングの後、必ず十分な休息をとるのと同じように。すると筋力がどんどんつくように。

「気力の手綱さばき」の加減を知っておくと、重篤な状態にまで陥らずに済む。トシをとると、気力は若い頃より衰える。だから、より慎重に、多めに気力をとっておくことも必要。小説であり、作り話かもしれないけれど、ネロのパトラッシュへの接し方は、気力の手綱さばきとして見習うことは多いと思う。

他方、自分を追い立てる焦り、自分を責める正義感は、パトラッシュの前の飼い主と同じ。パトラッシュに「働け!」と命じ、動かぬパトラッシュに鞭打った、あの飼い主と。パトラッシュは気力という気力をすべて失い、死にかけた。鞭打っても命じても、パトラッシュの気力は湧くどころか枯らしていた。

ネロは逆に、常にいたわり、パトラッシュが望むのよりも負荷が小さくなるように心がけていた。だからこそ、前の飼い主の時には引けなかったような重い荷物でも運べるほど強くなった。パトラッシュの前の飼い主と、ネロの接し方は、とても参考になるように思う。

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