もめ事を収めるコツ

震災からしばらくたった2月頭頃、神戸市の職員が避難所に派遣された。ところがどうも初期のころ、ボランティアとぶつかることが多くその日ももめていた。「何をもめているの?」と聞くと、インスタントラーメンを被災者に配りたいのに市役所職員がそれを許さない、と言ってボランティアは怒っていた。
市役所職員によると、被災者全員に公平に配れないのであれば、配ってはいけない、という。味噌ラーメンと塩ラーメンを合計したら被災者全員に配れるのだが、「それだと塩ラーメンが欲しい人に味噌ラーメンが配られたりなど、もめる原因になる、だから配ってはいけない」と頑張っていた。
私は「ちょっと任せてほしい」といって、その市役所職員と話すことに。「救援物資の管理、お疲れ様です。ところで問題のインスタントラーメン、どこから来たかご存じですか?」と尋ねた。「神戸市からですよ」との答えに私は首を振り、「いいえ、違います。私たちボランティアがかき集めたものです」。
「もし神戸市から支給されたものなら、あなたのご指導通りに物資を管理すべきでしょう。しかしインスタントラーメンは私たちボランティアがかき集めたものなので、私たちで配らせていただきます。ですので、この問題で責任を感じる必要はないですよ。私たちの責任で分配します。それよりも」
「ご存じの通り、配ってしまったらもうなくなってしまいます。もちろん私たちは、今後も物資をかき集めてきます。しかしそれでは不足する恐れがあるので、市役所職員である立場を大いに利用して、不足する救援物資を市に要求してもらえませんか。配ること、その後のもめごとは私たちに任せてください」
その後、市役所職員の方は、ボランティアが「これが足りない」というと「わかりました!」と言って市に即電話、物資をかき集める業務に専念してくれた。結構助かった。他方、物資を配り、それで不平を言う人への対応はボランティアが担うことにした。お互い強みを生かして棲み分けられた。
「同じ種類のものを全員に配れないなら不公平だから配らない」というリクツは、東日本大震災でも結構起きて、物資があるのに被災者の手に渡らない、というよくわからない現象が起きた、というのは私も耳にした。公務員が分配に関与すると、もめごとを恐れて過剰な「公平」を追究することがある。
被災地の現場では、公務員には不足する物資の要求をする仕事を担当してもらい、ボランティアが分配に携わる方が円滑に進む場合が多いように思う。自分の苦手な食べ物が当たってしまった時は、被災者同士で交換してもらうようにお願いするのも、ボランティアがやった方が文句が出にくいように思う。
どんなところにも文句を言うのが上手な皮肉屋さんはいて。煮込みハンバーグを大阪で大量に作り、なるべく保温して被災者の方々に温かい食べ物を、と思って持参したところ、「豚に食わせるようなもの配りやがって」と言った被災者もいた。しっかり食ってたけど。この人、何にでも文句言っていた。
「文句あったら食べんでいい」と言えるのも、同じ対等な市民であるボランティアだから言える。その人、食ってかかってきたけれど、私の父が「お前と同じ市民や!」と言ったら、「なんや、公務員や思たわ」と言い訳。公務員ならどんな文句を言ってもよい、と思っていたらしい。
公務員は市民からどんなに文句を言われても言い返してはいけない、という不文律があって、かわいそう。市民からの矢面に立たせたら、そりゃ過剰なまでにトラブルが起きないかとビビるのも無理はない。公務員には裏方に回ってもらい、表にはボランティアが対応したほうがやりやすい場合がある。
ボランティアは無私の人間でなければならない、という変な縛り、「思枠」があるけれど、そんなの要らんと思う。ボランティアは神様じゃない。人間。ただ、同じ人間として、ほっとけないから何かできることをするというだけ。嫌になったらやめていい。それがボランティアだと思う。
全員に味噌ラーメンと塩ラーメンを一個ずつ配ることができないのも、人間がかき集めたものだから。限界はある。その限界の中で、なるべく多くの人の苦しみを軽減できるようにしたい、ただそれだけ。それを公平に扱え、というのは、無理な要求。だって対等な人間なのだから。
どこまでも市民の下僕として動くよう要求されることが多い公務員に、矢面に立たせるのは酷。ならば、公務員には裏方に回ってもらって、大いに公務員の立場を利用した物資調達に腕を振るってもらった方がよい。ボランティアは、いっそボランティアという名前も忘れて、対等な人間として被災者に対応したらよい。
今、避難所で何をどうしたらベターか。「ベスト」はとても要求し得ない。何もかもが破壊されているのだから。だから「まだマシ」を追求するほかない。それは、被災者と同じ地平に立てる市民の方が、「これこれこういう状況ですねん。だからこれが関の山ですねん」と説明したほうがまだ納得しやすい。
日本人はもともともめ事が大嫌いで、近年はさらにもめ事を避ける傾向が強まっているので、もめ事をどう納めるかという訓練ができていない。だから、ボランティアが矢面に立てばいい、と言っても、それができる人は多くないかもしれない。でも、そういう調整役が、被災地では一番欲しい人材なんだなあ。
ところで冒頭の話に戻ると、市役所職員の正義、ボランティアの正義がぶつかりあって、全然話になっていなかった。それで私が調整役に入ったのだけれど、ケンカの様子を観察しているうち、市役所職員の方が何を根拠に「正義」としているのか、わかってきた。
救援物資は神戸市が支給したものだから、ボランティアの好き勝手にはさせない、というリクツが市役所職員にはあった。それが本当なら、なるほど、ボランティアが口を出す話ではない。他方ボランティアは。自分たちが必死になって集めてきた物資だから、市役所職員が口を出すのが納得できなかった。
で、互いに自らの正義の根拠を説明しないまま、相手の行動を責め、反対するものだから、話にならなかった。私はそこのところの誤解を解いただけ。すると、市役所職員も「自分が救援物資にあれこれ口を出す権利はない」と理解してくれた。スムーズに話が済んだ。
人間がある行動を頑張る場合は、その前提となる「思枠」がある。市役所職員は、「神戸市が支給した物資だ」という思い込みがあるから、自分こそ正義だと信じていた。私がそこを突き崩せば、あっさりボランティアたちが何を言っているのか、理解してくれた。
相手が何をどう考えているのか、その前提となる思枠を問う。そこで思い違いがあれば、それを指摘する。それですんなり交通整理できることも多い。
文句ばかり言う特定の被災者も、公務員には何を言ってもよいという思枠があったから、そこを崩したら文句を言いにくくなった。
相手が自分を正当だと考えるその前提となる思枠を突き止めること。それがもめ事を収める一つの方法だと思う。
もめ事を収めるのは、多くの人が苦しまずに済ませるために大切な力。もし可能なら、一人でも多く、その力を身に着けていただきたい。
3,4年前、悪天候のため、京都駅で電車が出なくなってしまった。駅員は無線でしきりに連絡を取り合いながら、必死に現場を収めようとしている中、奥さん連れたオッサンが一人、駅員にくってかかった。「電車出んのか!予定があるのにどうしてくれるんや!」おかげでその駅員、他の駅員に指示できず。
こりゃ、ほっとくと現場がますます混乱する。私はオッサンと駅員の間に割って入り、駅員に「この場は私に任せて。現場で指揮をとるのに集中してください」と言って、その場を立ち去らせた。オッサンは「何やお前!」と私に食ってかかってきた。
「私もこの電車乗りますねん。ほら、見てみなはれ。あの駅員、このホームで指示を出す要の人や。そんな人捕まえたら余計に遅れますやん。迷惑や」と言ったら、オッサン黙った。後ろの奥さんに袖を引っ張られたのをきっかけに、憤然として向こうに立ち去った。駅員は見事にさばき、電車はやがて動いた。
電車が遅れるという口実さえあれば、駅員にはどれだけ食って掛かってもいい、という思枠がオッサンの中にはあったのだろう。けれど同じ立場の人間である私が「私も早く乗りたいのにあんたのせいで遅れるかも」と文句を言ったことで、文句を言う前提、根拠を失った。だから勢いが失われたのだろう。
仲裁というのは難しい技術なのだけれど、第三者の方が話を収めやすい、ということはよくある。この場合、駅員は「お客様を予定通りお送りするのが仕事」という思枠があり、オッサンはそれを盾に取って、いくらでも文句をつけてよい、という口実を得ていた。ところが。
私という第三者が割って入ってきて、どう対応したものか困惑しているところに、あなたの行為はむしろこの場にいるお客さんみんなの迷惑になる、というリクツを述べることで、「自分は駅員になら怒って構わない」という思い込みを破壊した。
なんならオッサンは、電車が出ないことによる、その場にいるお客さんみんなの不満を代弁して、駅員という強者に立ち向かう英雄、という自画像を思い描いていた可能性がある。それを突き崩すには、私のような対等な人間が、ポンポンと肩を叩くのが最も効果的。
その場にいる人たちにとって、最もマシな選択肢は何か。それを実現するにはどうしたらよいか。公務員だとか駅員だとか、公的な場にいる人に全部責任を押し付けようとするのではなく、私たち市民一人一人が、自分にできそうなことを模索する。すると、いろんなことが円滑に進むように思う。

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