「期待」が不安→恐怖→嫌悪を招く・・・期待に代わる方法の提案

歌手の一青窈さんは最初のヒット曲の後、「癒やし系」と呼ばれ、「ぜひ次も癒やし系を」と期待されたとき、その期待に応えようとして潰れてしまったという。自分が何をしたいのかわからなくなって。

「前畑頑張れ」で有名な水泳の前畑選手は、「ぜひ次のオリンピックで金メダルを」と期待されたとき、その期待に応えようとして、そのプレッシャーに押しつぶされたという。

フィギュアスケートの真央選手は、オリンピックなどの大舞台の前に「期待してください」と、わざと自分を追い込むかのような発言を繰り返した。しかしそのせいか、鮮烈なデビューを果たしたときのような伸びやかな演技は影を潜め、悲壮感漂う演技になったように感じる。

水泳の北島康介選手は、二度目のオリンピックに期待が集まる中、「オリンピックを楽しませてもらう」という発言を繰り返した。一部、「楽しむとは何事か」とその表現を問題視する向きもあった様子。しかしプレッシャーを見事はねのけ、大活躍を長く続けた。

フィギュアスケートの鈴木明子選手は早くから注目され、期待された選手だった。しかしプレッシャーに押しつぶされ、一時スケートを完全にやめてしまった。
ある時、久しぶりに滑ってみると楽しい。楽しくて滑っていた子どもの頃の気持ちを思い出し、楽しんで滑るようになったという。

人間はなぜ期待に応えたくなるのだろう?期待されるということは注目を集めるということ。人間はどうやら「視線を食べる」生き物らしく、幼児はよく「見て見て」という。自分に注目してほしい、という欲求があるのだろう。次なる視線を獲得するためにも、期待に応えたく鳴るのかもしれない。

しかし期待は呪いに転じやすい。「期待に応えられなかったらどうしよう」と不安になると、その不安はやがて恐怖に変わる。すると、その恐怖を与えたものが嫌いになってくる。それは歌だったり、スコートだったり、水泳だったり。最初は純粋に楽しく、好きだったはずのものが嫌いになる。

他方、北島康介選手や鈴木明子船首の言動やその活躍をみると、期待をはねのけ、ひたすら「楽しむ」ことがいかにパフォーマンスを高めるのかがよくわかる。楽しめば好きでいられる。好きであれば飽きもせず観察を楽しめる。観察するから気づきがあり、工夫を思いつく。工夫するから成長する。

これ、子育てでも一緒だな、と思う。子どもの出来がいいと思うと、つい親は期待してしまう。期待すると、子どもは最初、注目してくれるのが嬉しくてハッスルする。しかしだんだん高みに立ち、容易には上に行けなくなりだすと、「もう無理かも」と不安になる。不安は恐怖に、そして嫌悪になる。

この子は頭が良い、勉強がよくできると期待された子どもがやがて勉強嫌いになっていく様子は、期待され、注目を集めてプレッシャーに押しつぶされたオリンピック選手の心理過程とよく似ているように思う。期待されるとやがて不安に、不安は恐怖に、恐怖は嫌悪になる。だからなのだろう。

もちろん、期待には「一時的」な効果はある。期待されるということは注目を集めているということ。注目を集めているということは視線を集めているということ。自分を見てくれる視線というのは、最初は嬉しい。だからハッスルする。

しかし、求められる水準が高くなって来ると「できるかな」と不安になる。不安が恐怖に、恐怖が嫌悪に、嫌悪が意欲を消してしまうのは早い。
しかし期待する側は、そんな心理過程を経るとは思いもよらないことが多い。それは恐らく、多くの人が「期待される」というのは栄誉だと考えるからだろう。

人から期待されるということは滅多にない。期待されるということは注目を集めるだけの活躍をしているということ。うらやましい限りのこと。そんなうらやましい状態にいるのだから、ありがたいと思うべきだと考えてしまうらしい。そんなありがたい状態を作ってくれた期待に応えるべきだと考えてしまう。

期待はありがたいものであり、感謝すべきもの。だから期待は恩恵であり、期待には応えるべきである、それが期待された人間の責務である、と考えてしまうらしい。
「期待したのに裏切られた」と怒る人がいるのは、自分の期待は恩恵であり、その恩に報いようとしないことに腹を立てているのかも。

しかしどうやら、期待は相手を不安に陥れ、「できなかったらどうしよう」という不安は恐怖になり、恐怖が嫌悪感へとつながっていくらしい。ならば、期待というのは、相手のパフォーマンスを悪くするものであり、考えもの。もうそろそろ、改めた方がよいだろう。

私は、期待なんかしないほうがよいと思う。それよりは子どもの工夫や発見、挑戦に驚き、ともに面白がることの方がよいように思う。「期待」はパフォーマンスや結果を求める。けれど結果を求めるから不安になり、恐怖を生み、嫌悪となって楽しめなくなるなら、結果なんかに期待しない方がよい。

パフォーマンスも結果も気にせず、今までになかった挑戦をし、その中で工夫を加え、発見していくことを楽しめばよい。そばにいる人間は、そうした挑戦や工夫、発見が起きたときに驚いていればよい。驚いたといえことは自分を見てくれていたということ。しかも驚かすことができた。それが嬉しい。

嬉しいから、また新たな挑戦をし、工夫や発見をして驚かそうと企む。意欲が湧き、ますます楽しくなっていく。注目点を結果やパフォーマンスではなく、工夫や発見、挑戦する姿そのものにしたとき、意欲はますます高める効果を持つ。

「期待」や「ほめる」は、子どもに同じ努力の繰り返しを求める。パターン化して、つまらなくなりやすい。しかし工夫や発見、挑戦の場合は、今までと同じことの繰り返しでは工夫にも發見にも挑戦にもならない。だから飽きがこない。

「期待」や「ほめる」は注目点がズレており、そのため、相手の意欲を奪い、結果的にパフォーマンスを悪くする原因のように思う。
それよりはともに工夫や発見、挑戦に驚き、楽しんでいれば、パフォーマンスは自然と進化し、磨かれていくように思う。だから結果やパフォーマンスに注目しない方がよい。

こうした人間心理によりそった指導が増えれば、子どもたちはもっと様々なことを楽しみながら取り組み、楽しむから飽かず取り組み、パフォーマンスを向上させていくように思う。期待ではなく、工夫や発見、挑戦に驚き、面白がる。そのほうが子も親も楽しんで取り組めるもののように思う。

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