現場・現実をなぞるように言葉を紡ぐ

先日の講演会で、「子育てなどの問題で多彩な言葉を使っているけれど、どうやっているのか」と質問が。多彩かどうかは分からないけれど、こういう事柄は通常こう表現するよね、という定型文に私は全くこだわらない。むしろ、無視。言葉に引きずられることを強く警戒しているほう。

阪神淡路大震災では、夜になるとNHKが被災地の主要な情報をテロップで流していた。それには、毎日740円のお弁当を神戸市の避難所に配っている、となっていた。その金額だけ聞けば、結構立派なお弁当が配られているな、という印象を持つ。けれど現実には。

コンビニのおにぎり2個、菓子パン、小さな牛乳パック一つ。以上。どう考えても当時なら400円いかないようなもの。金額から受けるイメージと現実とに乖離があった。阪神淡路大震災ではそういう話が山ほどあって、私は現実、現場に当たることの重要性を身にしみて感じるようになった。

たとえば子育てで大事にしていること、という話になると、「愛情を持って子どもに接する」という人は結構多く、そうした言葉を聞くと、多くの人が頷く、という「お約束」がある。私はそういう時、「わからない」と感じて、首をかしげる。

子どもは「厳しく育てるべきだ」ということを言う人もいる。これにも少なからず賛同者がいて、頷く人も多い。やはり私は「わからない」という顔をして、首をかしげる。私にはどちらも、何を言っているのかよくわからないからだ。

先日のウェブ飲み会のテーマは、「愛ある教育」。「愛、というテーマから離れないように」と司会の人が言ったけど、「私には『あ、い』という言葉に引きずられるとわけわからんので、テーマを言い出してくれた人が紹介してくれた、具体的事案に沿って言葉を紡ぎますね」と断った。

人間はどうも、言葉に思考が引きずられやすく、しかも自分の吐いた美しい言葉に酔うところがある。それだと、現場、現実からどんどん離れて、遊離して、空想の世界に迷い込むことになってしまう。私は常に現場、現実に密着して思考を進めよう、とする癖がついている。

そして、現場、現実を表現するのに、過去の言い回しや表現については、一切忘れる。言い古された言葉は、余計なニュアンスが張り付いていて、現場、現実から遊離してしまう。それよりは、どうにか現場、現実に近い言葉を探し、紡いだ方がマシ、と考えている。

すると、どうしても過去に言い古された言葉を使わないことになる。最も現場、現実に肌触りの近い言葉を探りながら言葉を紡ぐことになる。それがたぶん、聞く側にとっては「多彩」に聞こえるのかもしれない。けれど私はむしろ、言葉にこだわらない。現場、現実にはこだわるけれど。

もし、現場、現実を言い表すのによりよい表現が見つかったら、私は過去に使っていた表現をあっさり捨てると思う。言葉に価値があるわけではなく、現場、現実に価値があるのだから。言葉はそれを伝えるための手段でしかないのだから。

小難しい専門用語が、専門家による定義という余計な装飾が施されている場合、むしろ現場、現実から乖離してしまう恐れがある。そんなときは、私は専門用語も回避する。現場、現実の肌触りを伝える言葉であるなら、日常用語でも構わないと考えて

そのため、私の表現は独特なものになるのかもしれない。しかしこれは別に私に限ったことではないと思う。目の前にしている現場、現実をなんとか人に伝えようとしたら、言い古された言葉は、むしろ変な装飾がついていて使いにくい、と感じるはずだから。

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