「幸運」考

私は幸運にも京大に進学することができたけど、本当にいくつもの幸運が重なったからだと思う。もちろん私自身も受験勉強で努力はしたけど、その努力さえも幸運の助けがなければやる気を出せたかどうか。「運」の力を除いたら、どれだけ実力があったのか、疑わしい。

私は公立中学でど真ん中の成績でウロウロしていた。親が「高校選べないよ」と心配したほど。私は長子だからか高校というのがピンとこず、「勉強嫌いだし、いいよ、高校行かなくても」なんてこと言っていた。定期テストが近づいても「部活がないから」ソフトボールで遊んだり。

第一の変わり目は、中2の11月11日。住んでいた賃貸マンションの大ガラスを割ってしまった。弁償に八万円するという。家に千円しかお金のない日もあり、商品を売ってその日の食費を稼ぐ綱渡り状態。当然家賃滞納。そんな状況での多額の出費に、お袋さんは泣き崩れた。「もう、無理」と。

私はとんでもないことをした、と、部屋の隅っこで電気を消してうずくまっていた。すると、なけなしのお金を握って父が喫茶店に連れ出してくれた。
「中学生のお前ではとても弁償できる金額ではない。これからお前に5つのことを伝える。それを守ることでお母さんを助けなさい」

「1つ目、食事の支度、掃除、洗濯はお前が全部しなさい。もうお前はお母さんより体力がある。その体力でお母さんを助けてやりなさい。
2つ目、家事を言い訳にして部活をやめてはならない。お前の年頃は体を鍛えることも大切。しっかり部活もこなしなさい。」

「3つ目、お前は友達とあまり遊ばない。でも、友達というのは大切なものだよ。一生の宝になるから、土日の昼は、友達としっかり遊びなさい。
4つ目、頑張ってばかりだと疲れてしまう。しっかり休みなさい。でも、テレビや漫画でダラダラではなく、メリハリつけて休みなさい。」

「最後に5つ目。お前はちっとも勉強しようとしない。でも成績が少しでも上がれば、お母さん、何より喜ぶよ」
私が勉強机に向かうようになったのはその時から。でも、もしそれだけだったら、私は勉強机で漫画を読むだけになっていたかもしれない。しかし。

隣で父が受験勉強していた。父はそれまで経営していた会社を明け渡し(その時に借金一億円)、証券マンになるべく勉強をしていた。その隣で私は勉強することに。
私は決まった時間になると父と机を並べるのだけど、心の中ではチェッカーズや中森明菜がこだましていて、全然集中できなかった。

教科書の間に漫画を挟んで読んだり、勉強してるふりして落書きばかりしたり、好きな女の子を思い出してボーッとしたり。ところが父はそれに対して何も言わず、身じろぎもせず、ものすごく集中して勉強してる。私は落ち着かなく、イスをギコギコいわしたり足をブランブランさせたりしてたけど。

そんなことも目に入らないかのように集中してる父を見て恥ずかしくなり、「仕方ない、宿題くらいするか」となり、テスト前には「仕方ない、少しくらいテスト勉強するか」になった。それまで全く勉強したことがない人間がやるのだから、成績は着実に上がる。上がると、少し勉強が楽しくなってきた。

そんなとき、また別の事件が。なぜか私と仲良くしてくれていた友人がいた。成績はトップクラスで、地域で一番の進学校に進むことも間違いないと思われていた。その友人がある日、真っ青な顔をして「篠原、オレ、進学校に行けなくなった」と打ち明けた。

親と兄から、とてもではないけど大学にまで進学させるだけの経済的なゆとりがない、高校を出たら就職して家計を助けてほしい、そのためには就職に有利な工業高校に進んでほしい、と告げられたという。そしてその友人から「オレの分まで勉強してくれ」と言われた。

友人は実力もさることながら努力も重ね、すでに地域一番高に進学できるだけの学力を持っていた。なのに家庭の事情という不運から、進学を諦めざるを得なくなった。かたや私といえば、少し勉強して成績が上向いてきたとはいえ足元にも及ばない成績。だけど両親に進学への理解がある「幸運」が。

「友人なら、家庭の事情が許すなら、本人が希望していた通り東大や京大にだって進学できるだろう。だけど幸運な環境がないために断念しなきゃいけない。私の家も超貧乏だけど、進学には理解がある。そんな幸運な人間が、友人の代わりに努力しないでどうする?」と、私は考えた。

これといって目標を持たなかった私が、京大に進学することに心を決めたのは、「オレの分まで勉強してくれ」という友人の言葉があったから。それがなかったら、その後の猛勉強に火がつくことは決してなかったと思う。ほどほどに親を喜ばせて終わりだっただろう。

しかし才能の乏しさはなかなか猛勉強したとしても補えるものではない。高校卒業時に受験した2大学は不合格。翌年に再チャレンジを期す、はずだった。その時、母が死に病にかかった。父によると、余命幾ばくもない、という。

「もし手術して最悪の結果だったら、最後の時間をお母さんと旅して過ごす。済まないが、そうなるとお前たちのことに構うことができない。申し訳ないが、大学進学も諦めて、働いてもらうしかないかもしれない」と告げられた。私は腹をくくらざるを得なかった。

しかし幸運なことに、手術してみると最悪の事態ではないことが判明した。とはいえ、手術をもし少しでも遅らせていたら手遅れになっていたのだけど。私はもう一度、受験に向けて勉強することにした。

しかし思うように勉強時間を確保できない。母はやはり死にかけたために体力をずいぶん失い、家事ができなくなっていた。弟たちは高校生活に忙しくてなかなか帰ってこない。家事は一応兄弟で分担していたのだけど、浪人中の私にどうしても負担が回り、十分に学習時間を確保できなかった。

で、やはり京大落ちた。第二志望の大学に進学することに。このとき、今振り返れば幸運なのか不運なのかわからない事件が起きた。
阪大や名古屋大なら合格できたんじゃないか(二次試験の傾向が私には適していた)、という悔いが母親にはあったらしく、「なんで阪大にしなかったの?」とグチが続いていた。

ある日、私のところにツカツカと近づいてきて、「あんたは阪大受けても受からんかった、と思えばいいんやな」と言い放って、母親は立ち去った。
私は呆然とした。いや、京大合格できんかったのはあんたが入院したりしてたからやん?家事が忙しくて勉強時間を確保できんかったからやん?

でも母はそれまで、家族を支えるために頑張ってくれてたから、重病になったことにも、勉強時間を確保できなかったことも、家事を毎日やることも、一度も恨みごと言ったことないやん?なのになんで「あんたはアホやったんやな」みたいなこと言われなアカンのん?僕の努力見てくれてなかったん?

私がひどく落ち込んでる様子を見た父に、母からいわれた一言を伝えた。その夜、父が母を怒鳴りつけていた。「お前は、あれだけ頑張っていた息子に何ぬかすんや!」
この事件は結果的に、もう一度京大を受験し直す伏線になる。

失意の私に、光を灯してくれる「幸運」があった。お向かいのおばあさんが、朝、うちに来てくれ、「あんた、本当によく頑張ったね。お母さん倒れて、毎日買い物に行って食事を作って。本当に偉いね。この度は大学合格、本当におめでとう」と涙を流しながら、合格祝いを渡してくれた。

私を見てくれていた人がいたんだ、と、ものすごく嬉しくなった。自分の母親が私の努力を見ていなかったというショックなことがあったけど、私が家事から逃げずにこなしていた様子を見てくれていた人がいたんだ、と、とても嬉しくなった。その時のお祝いは、今も手をつけずに大切にしまっている。

相変わらず我が家の極貧は続いていて、とうとう大学に通うだけのお金がなくなってしまった。その様子を見て父は、「働け。働いて稼いで、もう一度京大を再チャレンジすればいいじゃないか」と言ってくれた。母の失言で私が相当なショックを受けてることを見ての判断だった様子。

私は大学に通うのをやめてアルバイトに専念、入学金と授業料を払うだけの算段をつけてから、秋以降、受験勉強に真剣に取り組むことになった。その頃には母も体力を回復し、自分の失言への反省もあってか、家事を引き受け、応援してくれるようになった。弟たちも、勉強時間を確保できるよう、積極的に協力してくれた。

で、3度目の正直でようやく京大に合格。
こうしてそれまでのことを振り返ると、いくつかのターニングポイントがあり、その時々で「幸運」が助けてくれたことがわかる。もし逆境を逆に利用するくらいの知恵を働かせてくれる「幸運」がなければ、私は大学進学を諦めねばならなかったかも。

いや、そもそも勉強する気など起こしていなかった可能性が高い。私のやる気さえ、私の力ではない。私をやる気にさせた数々のことが起きたから、たまたま勉強しようと思えるようになっただけ。私は「幸運」に何度も何度も助けられた。

今回は紹介しなかったけど、教師にも恵まれた。そうした一つ一つの幸運が、私を支えてくれたのだと思う。私が京大に合格したのではなく、そうした幸運の集積が京大に合格したのだと思う。
私は、私を取り巻く他者との関係性によって形成されてきた。それがなければ、私は努力しようもなかった。

私が今、考えるのは、周囲の人にそうした「幸運」を少しでも分かち合える人間になりたい、ということ。少し関わり方を変えるだけで、子どもは劇的に変わるチャンスをつかむことがある。そうした「第三者」が増えると、子どもは変わる。劇的に。

私がこんな身の上話をするのは、どうか子どもたちに、そうしたら「幸運」を分かち合ってくれる大人が増えますように、と祈っているから。関わり方がほんの少し変わるだけで、子どもは劇的に変わる。どうか、そのことを心のどこかにとどめて頂きたい。

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