「このレベルに達しなければ」という呪い

私の参加する日本酒の会は、メンバーほぼ全員、アルコールに弱い(例外が一人、二人)。私の酒量はお猪口3,4杯が限界。それ以上飲むと頭が痛くなる。翌日二日酔い。
量を飲めないから、1瓶空にするのに一体何日かかるやら。そのため、種類を楽しむことができないのが悩みのタネだった。

私と同じように、いろんな銘柄のお酒を楽しみたいのに弱いから無理、という人たちが集まって、みんなで味わう。私は1銘柄につきお猪口半分ほど注いで、味わう。そのくらいだと6種類くらい楽しんでも無理がない。

酒に強い人と飲むとそういうのができない。飲みたいと思っていた銘柄をすぐ空にされてしまうし、飲みたくない銘柄のお酒をたっぷり注がれてしまう。もったいないと思って飲むと、その日はその銘柄しか飲めないことになる。酒に強い人の参加する日本酒の会は私に縁のない世界。

量を飲める人と飲めない人とでは、酒の楽しみ方が違う。量を飲める人はしばしば、ある程度酔っぱらうと味が分からなくなり、何の銘柄でも一緒になってしまう人が多い(たまに、味覚が全く衰えない人もいるが)。そのせいか、「まあお前も飲め!」と量を注ぎに来る人が多い。

メンバーのほぼ全員が酒に弱いと、みな手酌。並んでいる全種類を楽しむには、というのを逆算して、1銘柄で口にする量を加減して飲む。酔うほどに飲むと後がしんどいので、酔わない程度にしか飲みたくない。酔ってないからよく味わって飲める。「おいしいね!」と言って一緒に飲むのが楽しい。

ピアノについてのツイートがずいぶんバズったけど、「ある程度技術が伴わないと楽しめない」という意見が複数。これ、酒に強い人と似ている意見だな、と思う。お猪口3杯しか飲めない奴が酒を楽しめるとは言えない、と断言されているような。でもご心配なく。楽しんでます。

私はピアノを右手の人差し指1本でしか弾けない。それでも覚えているのは鉄腕アトムの主題歌のみ。そんな技術も何もない私だけど、ピアノを弾くのは結構楽しい。子どものおもちゃのピアノで、音を探しながらSMAPの「世界に一つだけの花」を奏でたりする。かなり楽しい。

初めてやったときは、そもそも出だしの音が何なのかさえ見当がつかなかった。見つけても二つ目の音がどれなのかも見当がつかない。それでも、これかな?それともこれかな?と探し、「これだ!」と見つけられると、とても楽しい。こうした音探しを、子どもができてから楽しむようになった。

すると不思議なもので、音探しをずっとやっているうち、まったく弾いたことのない曲の音探しをすると、一発で最初の音を見つけることができたりした。音を見つける確率が上がっていく。これも自分の上達を感じて、とてもうれしい。楽しい。

私は人と比較しない。昨日の自分より今日の自分で「できない」が「できた」に変わった。そのことがうれしい。楽しい。ピアノのうまい人は「そんなのはピアノで楽しんでいるとは言わん!」と定義するかもしれないが、私はそんな定義知らん。私は楽しんでいる。それで構わないと思う。

そして実はこの姿勢、子育てではとても大切なのではないか、と考えている。親は子どもが言葉を話せるようになると、教えようとすることが多い。「それはこうするといいよ」「これはこうしたほうがきれいにできるよ」子どもが小さい間は、そうしたアドバイスも素直に聞くかもしれない。

しかし、「教える」というのは、子どもにとってとても大切な喜びを奪う行為。自分で試行錯誤して見つけたかったのに、答えを知っている親がさっさと教えてしまう。親は善意でそうしているのかもしれない。けれど、教えられた子どもからしたら、一番の楽しみを奪ってしまっているのかもしれない。

探偵小説の真犯人を、読み進める前に教えられたらどういう気分だろう。映画のクライマックスを見る前に教えられたらどうだろう。面白くないだろう。「教える」という行為は、しばしばそれに似ている。先回りして教えることは親切なようで、喜びを奪う行為。

それに、「教える」ということは、親はすでに一定水準以上の技術を備えていること、だから子どもが努力してレベルアップしたとしても、親の技術を超えない限り、親は驚かない、ということにも気がつく。実際、レベルアップしても「じゃあ次のステップね」と、次へ急かそうとする。ゲンナリ。

子どもは親に驚いてほしいのだと思う。赤ちゃんが言葉を最初に話したり、初めて立ったりしたとき、親は手放しで驚いたはず。教えもしないのにどうして言葉を話せるのか?立てるのか?その時の驚きようを、子どもはきっとどこかで覚えている。だから何かができるようになった時。

子どもは「ねえ、見て見て」という。「できない」を「できた」に変えることができた、自分の成長で驚いてほしくて。そこで親が驚けば、子どもはきっと、次なる成長で親をもっと驚かせようと企む。その能動的な意欲が学習意欲となり、成長につながり、親を驚かせ…という好循環になる。

でも「教える」という行為は、しばしば「それはできて当たり前」という心理を教える側に生みやすい。むしろ、練習不足にイライラしたり、なかなか習得できない遅さに不満だったり。だから達成しても驚くどころか「とっくにできていなきゃいけないのに!さあ、次!」

子どもは頑張ったのに、親は驚いてくれない。それどころか、「私が教えたから今のレベルにある」と、手柄を親(指導者)が盗ってしまう。これでは子どもは面白くない。頑張っても教えた人の功績になるなら、成長しても驚かないなら、もうやりたくない!と。

「技術がなければ楽しめない」と言った人は、もしかしたら、一定水準に達するまでは決して驚いてくれなかった親や指導者に囲まれていたのかもしれない。そしてその人はなんとかその水準をクリアできた幸運をつかんだから、その世界観を受け入れてしまったのだろう。けれどその世界観には。

多くの犠牲者が背後にいるだろう。親や指導者が求める水準に達する前に嫌気がさして、意欲を失って、取り組む気力さえ奪われ、その道を放棄した子どもたちが。そしてその分野を楽しむどころか、自分たちにダメな子どもという烙印を押したその分野を恨み、罵り、嫌うようになるだろう。

私は実に非生産的な世界観だな、と思う。そうして成長意欲を奪われた子どもは、努力自体を放棄する。嫌うようになる。成長することを求められることは、過去の嫌な記憶を呼び覚ますことにつながる。だから拒否する。ゲームや麻薬や、別の世界への逃避を図るケースも出てきてしまう。

私は、お酒の量が飲めないなら飲めないなりに楽しむように、子どもの成長も、「達成すべき水準」なんてものを一切考えずに観察している。そして昨日には見られなかった変化があったら、それに驚き、共に楽しむようにしている。すると子どもは。

もっと驚かせようと企む。意欲的になる。工夫を重ね、挑戦し、次々に発見する。途中の苦労をものともせず、努力を重ねる。もっと驚かせてやろう、自分の成長をみせつけてやろう、と企んで。そうした工夫、挑戦、発見、苦労、努力は、スポンジのように様々な現象を学び取り、吸収する力となる。

私は野球がことのほか苦手。顔面に向かって飛んでくる球を、「見えないな」と思ってミットをどけて顔面直撃、というのを何度もやったことがあるほど鈍くさい人間。そんな人間だから、息子に野球を教えることはできなかった。が、グローブを買って、キャッチボールするようになった。

私は息子に投げ方もボールの取り方も一切教えず、キャッチボールした。何か変化に気がついたら私はそれに驚き、それをを口にするようにだけした。すると、子どもは私の驚きをヒントに「体の声」を聴き、よく観察し、投げる工夫、ボールを取る工夫を重ねるようになった。

先日、高校野球児に息子とキャッチボールしてもらったけど、すごくうまいわけではないが、投げ方も受け方もなかなか上手にできている、と言ってもらえた。お世辞ばかりでもないらしい。誰に教えてもらうのでもなく、自分で創意工夫することでうまくなった。

私が大切にしたのは、息子が楽しんで、意欲を持って取り組めるように、という点。そのために、息子が工夫したり、何か発見したりして、変化が起きたらそれに気づき、驚き、それを伝えた。するとますます息子は工夫を重ねた。それだけでなく、壁当てして長時間練習に励んだ。

そうした工夫の積み重ねと練習の積み重ねが、いわば人工知能のビッグデータに相当するものになったのだろう。どんくさい父親と違って、息子は体の動かし方が上手。少なくとも、平均的な男の子程度には体を動かせる。私と大違い。

教える人間を子どもが超えるのは「出藍」という。藍という植物よりも青という色は青いことから、そういわれる。「トンビがタカを生む」ともいう。親を超える能力を得た子どもをそう呼ぶ。
私は、「出藍」を可能にする指導法はないものだろうか?と長年考えてきた。

それが、「教えない」ことと「問う」こと、「工夫・努力・苦労に驚く」ことだった。教えるとどうしても子どもは、教えた言葉通りに行動しようとして工夫がなくなる。なぜそうするのかの理由も考えなくなる。教えたことだけができて、応用力が失われる。いわゆる指示待ち人間状態になってしまう。

だから、私は「教える」ことをできるだけ少なくする。最小限にする。その代わり、気づきを誘導するために「問う」。どうしたらよいかを考えてもらう。問うときにヒントは示すが、自分で推察できそうな部分は残しておく。すると子ども(部下)は状況をよく観察し、条件を吟味するようになる。

すると、「こうしたらよいのでは?」という仮説が湧いてくる。こうした仮説的思考を「問う」ことで促すと、観察力を育て、推理力をつけることができる。
そして、出てきた仮説に「驚く」。たとえその仮説が間違っていても構わない。自分で考えようとした能動性に驚く。工夫したことに驚く。すると。

子どもは、親が驚くことが面白くて、どんどん仮説を述べるようになる。やがて妥当な仮説が出てきたときに「面白い!そのアイディアでやってみてよ」と言って、うまくいったとき、お互いにハイタッチすることになる。「やったあ!」

「教えない」「問う」「驚く」は、目の前のささやかなことも楽しめる。それでいて、観察力も推理力もつくから、「教える」よりも子どもの能力が格段に伸び、答えを自ら導く能力に長けるようになるように思う。

「酒は量を飲まなければ楽しめない」「技術がなければ楽しめない」という考え方は、逆に物事を楽しめないように子どもたちを追い込んでいるような気がしてならない。楽しめなくすることで、本来開発できたであろう能力さえ伸ばされずにトグロを巻いてしまっているような気がする。

「このレベルに達しなきゃ意味がない」というのは、「呪い」だと思う。そんな呪い、捨てちゃえばいいのに、と思う。その呪いに囚われ、その分野を楽しめなくなった人がどれだけ多いか。それによって、その人たちの能力開発をどれだけ妨げたことか。

その「呪い」を肯定している人は、幸いにそのレベルに達することができたのだろう。そして、自分はそのレベルを克服した「すごい人」と自己評価を上げ、そのレベルに達していない人を見下すことで、「選ばれし人間」だと悦に入る。そしてその「呪い」を次の世代にもかけようとする。

私は、そんな「呪い」をやめてしまえばいいのに、と思う。「自分が苦労したからお前も」というのは、虐待の連鎖とかでもよく見られる心理。一定以上のレベルを求める「呪い」は、もしかしたら「俺も苦労したんだからお前も」という、虐待の連鎖を自分で止められない心理なのかもしれない。

しかしそれは虐待でしかない。それが子どもたちをよくする方向に働いていると思えない。むしろそんな呪いをかけられ、やる気を奪われたことへの怨念を増殖させているだけのような気がしている。

ある水準を100点と考えると、90点でもマイナス10点。たとえ99点をとってもマイナス1点。ある技術水準を求めるようになると、減点主義になってしまう。私は、0点から考えたらよいと思う。満点が難点かなんて考えない。1点であってもプラス1点。2点なら2点。10点なら10点!すごい!

加点主義の方が楽しいし、楽しければのめり込むし、のめり込めば集中し、しかも練習を重ねるからうまくなる。どんどん成長する。それに親や指導者が驚けば、さらにやる気に火がつく。そうすれば、その子の能力開発はさらに勢いを増すだろう。

そんな風に私は考える。酒も大して飲めず、スポーツも苦手、人付き合いも苦手、勉強も中学2年の11月までは超苦手だった私は、自分に対する要求水準は常にゼロからだし、子どもたちに対してもそう。そしてどうやら、そのほうが意欲を増すし、成長速度も速いらしい、というのが見えてきた。

一定の水準に達しなければダメ、という「呪い」は、もうそろそろやめにしてはどうだろう。その「呪い」のために、幾多の人々のやる気を奪ってきただろう。もうそんな虐待の連鎖みたいなのはやめよう。ゼロから一つプラスになっただけで楽しいやん。それでいいのではないかと思う。

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