謙虚に聞き、発見に驚き、楽しむこと・・・新天地に生きる知恵

京大に合格してすぐ、父の友人が先斗町の小料理屋に連れて行ってくれた。最初、店には私たち3人だけ。しばらくすると「京都のことならなんでも聞いてくれ」みたいなことをゲラゲラ笑いながら話す人が「お、ここにしよう」と戸を開けた。いかにもお金持ってそうな、高級スーツを着た男性二人。すると。

店の主人が「すみません、予約でいっぱいで」。やむなく二人の男性客は店を出た。私はいつ予約客が来るんだろう、と気になっていたけれど、一向に予約客が来る様子もなく。
やがて恐る恐るの様子で、二人の女性客が戸を開けた。「あのう、京都のお料理を勉強させていただきたいんですけど」すると。

「どうぞ」
店の主人は、予約客が来るはずの席に女性二人を招じ入れてしまった。え、でも、だって、予約客がって言っていたのに、と目を丸くする私に、父とその友人はニンマリ。
店を出た後、父とその友人は私に教えてくれた。

「京都人として認められるには3代かかる、と言われている。初代はもちろんよそ者。2代目もよそ者の子ども。3代目になってようやく、生まれながらの京都人として認められる。そんな土地柄なのに、京都人でない人間が京都を偉そうに語るのは嫌われる。」

「何より、あの客は見るからに金にあかせて、という印象。あんな客がいると店の雰囲気が悪くなる。けれど表立って断るのは相手も気分が悪い。だから向こうも納得せざるを得ない理由を言ったんだよ」
でも、ならどうして女性客はOKしたんだろう?と尋ねると。

「京都を知らない、だから勉強させてほしい、という謙虚さがあの女性客には表れていただろう。出てきた料理の一つ一つに驚きの声を上げていたし。京都はね、知ったかぶりせず、謙虚な姿勢でいる人には優しい町だよ。たとえば学生には大変優しい町だ」

それは学生の間、痛感した。居酒屋で飲み会をするとき、コースは1人2500円なのに、それを割り込む金額しか用意できない、と正直に言うと、まけてくれた。京都の人は学生に優しい。そして謙虚な人、勉強させてくださいという人にとてもやさしい町。

都会で生きてきた人が田舎に移住するケースがバブル以降、結構流行した時期があった。しかし昔から現地で暮らす人とトラブルが起きることが多い。それは新規就農者が訴える苦悩の一つとしてよく語られる。「田舎者は因習が強く、頑迷だ」と怒ったりしている人の話は結構ある。

なぜ都会人が田舎に移住する際、トラブルが起きることがあるのだろう?興味がわき、いろいろな方に話を聞いていると、すべてのケースに当てはまるわけではないのだが、次のような態度を示した時、ほぼ確実に地元の人から拒絶されるらしい。「田舎者に都会人が教えてやろう」

田舎の慣習を因習と決めつけ、都会はこうやっている、と説教垂れようとする人、企業勤めの長い人が「企業ではこうして仕事を回す」と偉そうに教えようとする人は、地元で嫌がられ、拒絶されることが多い様子。地元の人からしたら、なんでお前にバカにされなきゃいかん、と不満なのかも。

それは、もしかしたら、金をもっているからといって京都の町を「オレはすべて知っている」と語り、店の主人には相槌だけを求め、ガハハ笑いしかねない冒頭の客に、ちょっと似姿なのかもしれない。もちろん、因習の強い地域もあるので、どっちが悪いとは言い切れない。

他方、田舎にスッと溶け込んで、地元の人たちと実にうまくいっている都会人もいる。興味深いので、その人たちの話も聞いてみた。すると、共通するのは、謙虚であり、驚いてばかりであり、地元を楽しんでいること。まるで、京都の小料理屋で驚きの声を上げてばかりだった女性客のように。

田舎で見るもの聞くもの、すべて「わあ!」と驚きの声を上げ、田舎の人に「私、何も知らないんです」と謙虚に話を聞き、教えを請い、一つ一つに「へえ!」と驚く人は可愛がられる。「これ持っていけ」とたくさんの野菜を頂き、これもまた「うわ!こんなにいいんですか!」

そうか、京都だから、じゃないんだ。どんな土地にも、地元で長く暮らし、その土地に強い愛着をもつ人がいるんだ。そしてその土地、そこに住む人々に興味関心を持ち、新たな出会いに驚き、感動する人がいたら、「こんなのもあるよ!」と教えたくなる。またおいで、なんなら住みなよ、となる。

田舎に移住するときのコツ、それは、その土地のことを何も知らないという謙虚さ、それを知りたい、学びたいという前向きな姿勢、そして知らなかったことを知った時の驚きの声、何かしてもらった時の喜ぶ顔。それがあると、田舎に限らず、きっと京都でも可愛がられるのではないか。

私たち家族は、紹介してもらった古民家に住んでいる。家を初めて見せてもらった時、お向かいの人もどんな人なんだろう、と一緒に。私とYouMeさんは「縁側がある!あこがれていたんです!」「あ!芋穴!ほんまもんや!ねえ、見てみ!」と大興奮。

地元では「出合い」と呼ばれる、共同での草刈りがある。私はヘタクソだけど、草刈り機をもって参加。地元の人にコツを教えてもらいながら、「はあ、なるほど!」と驚きつつ、楽しんで草刈りをしていた。田舎なので高齢者が多く、私たち夫婦は、子どものようにかわいがってもらえた。

地元のことは何も知らない。慣習は、理由があってその土地で形成されている。その歴史を無視して、都会のやり方、企業のやり方が優れていると勝手に判断し、それを勧めるのは、やや傲慢さがあると言えるかもしれない。地域となじむには、謙虚さと、驚きの声を上げることと、楽しむことではないか。

現在の日本では勤め人が多く、引っ越しては賃貸で住む、ということが多く、地域の人とのコミュニケーションをとる経験値が少ない。家を購入し、ご近所とうまくやっていこうとしたとき、もし「自分の方がよりよい方法を知っている」という傲慢さが垣間見えると、うまくいかない恐れがある。

謙虚にその地元の慣習を学び、驚きの声を上げ、喜んでいれば、逆に地元の人は「都会ではどうしているの?」「企業だとどんなふうにするんだろう?」と、自分の知らない世界の話を聞きたがり、感心してくれる。聞き入れてくれる。こちらが感心し、聞くから、逆の現象も起きるように思う。

その地元の人間として真に認められるのは、京都人に限らず、3代かかるとみてよいのではないか。自分自身は、生きている間はよそ者。地元のことを知らない人間。その謙虚ささえ失わず、地元のことを知りたい、教えてほしいという気持ちでいれば、地元の人に可愛がられやすいように思う。

京都の先斗町にある小料理屋で見た出来事は、いかに謙虚さが大切なのか、学ばせていただくという姿勢が決め手になるのか、知らなかったことに驚きの声を上げ、喜ぶことがいかに地元の人を楽しませるのか、を学ばせてもらった。確かに、よい社会勉強になったように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?