楽しんで生きてほしい

YouMeさんの言う育児方針、私も同感。「楽しんで生きてほしい」。端的で、すべてを言い尽くしているように思う。
「楽しむ」という言葉を「嫌なことから逃げる」という意味に解釈する人が少なくない様子。「苦しいことから逃げない試練も必要なのではないでしょうか」と相談受けることも。

私は逆だと思う。楽しいからしんどいこと、つらいことも逃げずに取り組める。ゲームにのめり込んでる子は、眠くてもトイレに行きたくてもゲームから離れないのと同じ。野球が好きな子は、練習すればするほどうまくなるのが楽しいから、つらい練習も耐えられる。つらい練習もなんか楽しい。

楽しくないことはつらいだけで終わることがほとんど。楽しめてなければ心がもう逃げ腰。勉強が嫌いになってる子は、強制されたらなおのこと嫌になる。イヤイヤだから身につかない。身につかないから楽しくない。楽しくないから身が入らない。身が入らないから身につかない、という悪循環。

「だって、勉強って面白くないしつらいものでしょ?」と言われることがある。確かに勉強は面白くない。読んで字のごとく「勉(つと)めて強いる」だから。強制されてのことだから。自分の意志を無視されて強制されることは、人間嫌いになる。勉強が嫌いになるのは当然。
ただし。

学ぶことはみんな大好き。しらなかったことが「知る」に変わった、できなかったことが「できる」に変わった、それは大変楽しいこと。
クイズ番組で新しいチシキを手に入れたら、「明日友達にその話をしよう」とワクワクする。そう、学ぶということは楽しいこと。

子育てにおいてYouMeさんと常に心がけていたことは、万事たのしんで取り組むこと。「嫌なこと、つらいことから逃げない」というのでは、すでに嫌であること、楽しくないことであるのが決定してしまっている。私達は、すべてを楽しむ方向でリデザインしてきた。

楽しみを奪わないようにするため、「教えない」ようにしてきた。幼児は大人に「なんで?なんで?」と聞いてくる時期がある、とよく言われる。大人はついついその時、知ってる知識を披露して教えてしまう。
私達は「なんでだろう?」と一緒に悩んだ。答えを教えるのではなく、一緒に観察を楽しんだ。

蛇口をひねると水の糸が伸びる。でも途中から水の粒にちぎれてしまう。なんでだろう?一緒に不思議がり、一緒に観察して、気がついたことを言い合う。そして「もしかしたらこんな風になってるんじゃ?」と子どもが仮説を言うのに「おお〜、面白いねえ」と驚き、楽しむ。

半分くらい水の入ったペットボトルを逆さにしてお風呂の水面につけると、水が落ちていかない。なんで?
でも私もYouMeさんも、どこかの本で読んだような知識は披露しない。子どもの持ち駒の体験や知識だけでどれだけのことができるかというゲームを楽しむことにしている。

子どもの持ち駒だけでどうにかするゲーム。そしてともかく目の前の現象をよく観察し、気づいたことを述べ合い、「これが理由かも?」という仮説を述べ合う。いつかヒントになる出来事に出会うまでは、その仮説のまま寝かせておく。
すると何かに気づいたとき、子どもが息せき切って「あの現象はね!」と說明してくれる。

何かの本で読んだり、テレビを見て気がついたり。私達大人が教えなくても、寝かしておいた仮説が子どものアンテナを立て、そのヒントになる話と出会ったとき、子どもの中で「そうだったのか!」が現れる。その奇跡に私は驚かされる。教えなくても自分で切り開いていくその力に。

大人が先回りして教えることは、そうした知的興奮という楽しみを奪う行為。推理小説を読む前に「真犯人はね」と教えたり、映画を見る前に「クライマックスはね」と教えられるようなもの。ひどく興ざめな話。教えるという行為は、「学ぶ」というとても楽しい営みをひどく傷つける行為。

私もYouMeさんも、学ぶことの楽しさを最大化するにはどうしたらよいのか、ということを試行錯誤してきた。その結果、「大人が教えて子どもにドヤ顔するのではなく、子どもが先に気づいて大人がそれに驚かされるのが一番楽しい」ということがわかってきた。

すると、私が小学校の頃なら毛嫌いして読まないだろう本にも手を出すし、私が苦手な算数や数学を好んで学ぶようになった。私は字がひどく下手だけど、息子も娘も私とは比べ物にならないほど字がきれい。親ができない、やりたくもないことを楽しんで取り組んでる。

どんなことも楽しんで取り組めるのだと思う。私の仮説では、人間は働くことも本当は大好き。楽しいから。でも、楽しめなくする何かがあると、全く楽しめなくなる。つらい苦行になる。そのほとんどの原因は強制されること。強制されることは大概楽しめないものに変えてしまう。

しかし「ありがとう!助かった!」と喜んでくれる人がいたとき、「またやってあげよう、喜んでもらおう」という意識が芽生える。まさか自分のためにそんなにしてくれるとは!という驚きを与える事ができたとき、人はその人のために働きたくなるものだと思う。

強制でなく、自分が好きでやること。やめるも続けるも自分次第。そうなると、基本的に学ぶことも働くことも結構楽しい。そのうえで驚いてくれる、喜んでくれる、面白がってくれる存在があるとき、楽しみは倍増する。
そうした心の仕組みが人間にはあるらしい。その仕組みを知った上でいると。

大概のことは楽しんで取り組める。楽しければ苦難もゴールまでの過程でしかない。ゲームで言えば、ラスボスを倒すための道のりでしかない。人生で起きることはゲームとさして違わない。楽しめばよいように思う。すると、苦難も笑って乗り越える力になるように思う。

これから子どもたちの歩む時代は、私達より過酷。エネルギーの乏しい生活は、豊かさの中で暮らした大人世代にはつらいものに見えて仕方ないかもしれない。
しかしきっと、それを悲観する必要はない。どんなところにも工夫の余地があり、発見があり、挑戦しがいがある。つまり楽しみがある。

子どもたちには楽しんで生きていってほしい。楽しめば道は開ける。どんな苦難にも「次はどんな工夫をしようか?」と楽しんで取り組んでほしい。そんな人生を歩んでほしいと願いながら、子どもたちと接している。

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