呪いの解除法…観察し、発見を楽しむ

親や教師からかけられた「呪い」をどう解除すればよいか、という質問が複数の方から。呪いには大きく2種類あるように思う。「お前は○○なダメな存在だ」と否定する呪い。「お前は○○する良い子」とほめながら、そうあり続けなければならないところに縛り付ける呪い。ただどちらの呪いとも。

「お前は○○な存在である」という「存在」に呪いをかけている。愚かだとかのろまだとかこき下ろされる「存在」であろうと、良い子だとか勉強できる子だとか、ほめる「存在」であろうと、どういう存在であるかを決めつけるのが「呪い」のような気がする。ここに呪いを解除するヒントがあるように思う。

私は若い頃、性善説とか性悪説という言葉を知って、悩んでいた時期がある。人間は生まれつき良い存在なのか?それとも、この世に生きていてはいけない悪い存在なのか?どちらも本当のような気がして、いったいどちらに加担すればよいのか悩んだ。悩みに悩んだ挙句、たどり着いた答えは。

「いや、人間は人間でしかないやん」。優しい人のふりをするのはあなたのことが好きだから、という大黒摩季さんの歌であるけれど、人間は好きな人には優しくしたいし、好かれたい。腹の立つ人は頭をポカリと叩きたくなる。それが人間。良いも悪いもクソもない。人間は人間でしかない。

それに気がついた時、人間を何かの評価軸に当てはめ、ゼロより上だ、いやマイナスだ、と評価するのがバカらしくなった。なんで評価する必要があるの?っていうか、その評価軸、どこから現れたん?それって必要?

老荘思想の大家、福永光司さんが少年のころ、母親から謎をかけられた。「あの曲がりくねった木をまっすぐ見るにはどうしたらいい?」その木はどこからどう見ても曲がっていた。まっすぐ見えようがない。考えに考えたが、分からない。降参すると、母親からはこんな答えが。「そのまま眺めればいい」。

私たちは「まっすぐ」という価値規準を抱くと、まっすぐか、曲がっているか、でしか評価できなくなる。そのため、木はもはや、曲がっている存在にしか見えなくなる。しかしその価値規準を脇に置き、虚心坦懐に木を眺めてみると。

木漏れ日の気持ちよさ、風で葉擦れの音がすること、虫たちが樹液を吸いに来ていること、良い香りがすること、木肌がゴツゴツしていること、大地に力強く根を張っていること、折れた枝は昨年の台風かも、と細かいことにも気がつく。五感から膨大な情報が入ってくる。

母親が伝えたかったことは、物事を観察するとき、価値規準を心に抱かないように、虚心坦懐に観察し、五感から飛び込んでくる情報に耳を澄ませろ、ということだったのだろう。「まっすぐ見る」とは、「素直に眺める」という意味だったのだろう。

どんくさい子だとか、頭が悪いとか、足が遅いとか、あるいは逆に親の言うことをよく聞く良い子だとか、まじめでよく勉強する頑張り屋さんだとか、そうした「呪い」は、何らかの価値規準で存在を評価したもの。ということは、評価を下した途端、見えなくなったものが膨大にあるはず。

私が塾を主宰していたころ、親御さんと三者面談を頻繁に行っていた。すると非常に多いパターンが、子どもは黙って、母親がまくしたてるパターン。そして謙虚さを示すためなのか、子どものダメなところを列挙しまくり、最後に「こんな子ですが、よろしくお願いします」。子どもは苦虫かみ潰してる。

私は、お母さんが悪口として表現したものを、すべてひっくり返してその子の長所として見直す。臆病だという親の評価に対しては「君は物事を慎重に観察するタイプのようだね。それって大切なことなんだよ」と、観察することがどんな結果をもたらすか、という前向きな話にしてしまう。

「この子はおっちょこちょいで」という評価が親から出ていた時は、「君は失敗することを恐れずに挑戦できるタイプのようだね。それって大切なことなんだよ」と言い、それが功を奏したエピソードを紹介して、その特徴は長所である、という話に変えてしまう。すると面白いことに。

さんざん子どもの悪口(ダメなところの列挙)を言っていたはずの当の親が、「そういわれてみれば、この子にはこんなところもあって」と、欠点ばかりだと思っていたことが非常に良い結果をもたらしたエピソードを思い出し、それを披露してくれる。私は「ほう!ほう!」と子どもを見ながら驚く。

「君、やっぱりおもろいやっちゃな!」と肩をたたくと、まだ会ったばかりだから表情は硬いけど、悪いところばかり見られていたのが、すべて長所としてひっくり返されていくので、呪いが少し解けた顔になってくる。そして実際、指導しているうちに呪いは解けていく。

呪いを解除する一番のコツ。それは、何の評価軸も持ち込まないこと。自分を、あるいは人を、何かの評価軸で評価しないこと。ただただその人を、あるいは自分を、虚心坦懐に観察し、観察の中から見出された発見を楽しむこと。「あ、こんなところがあるのか!面白いなあ!」

私にも相当の呪いがかかっていた。それは単に、親からの言葉での呪いだけではない。時代の呪いもある。誰もが一番を目指さなければならないという呪い。努力しなければならないという呪い。まじめでなければならないという呪い。様々な呪いが私にはかかっていた。

私は、自分を縛り付ける様々な評価軸を解き放ち、自分を虚心坦懐に観察した。鼻が低いのを評価して見下したりするのではなく、「そうか、鼻はこんな形なのか」と、観察して発見することを楽しむ。自分の性格分析も、評価したり断罪したりせずに、「そうか、面白い性格だな」と発見を楽しむ。

西洋人がアジアの王に会った時、王が手のひらで鼻水をかんだ。西洋人は「なんてみっともない」と顔をしかめた。王は「では、お前たちはどうやって鼻をかむのだ」と尋ねると、西洋人は胸を張って「絹のハンカチで鼻をかみます」。王は「鼻水ごときで絹を使うお前たちの方がどうかしている」。

西洋人が未開地で人肉を食べる民族と出会った。「なんて野蛮な」と顔をしかめると、その人たちは「ではお前たちはどうやって死んだ人を葬るのだ」と尋ねた。西洋人は自慢げに「土に埋葬する」と答えると、「大切な人の肉をウジ虫に食べさせるお前たちの方がどうかしている」。

この二つのエピソードは、モンテーニュ「随想録」にあるものだけど、価値規準というのは、その民族や国の文化によって様々。鼻のかみ方から葬り方まで、全然違う。自分の価値規準で相手をほめたりけなしたりするのはおかしい。というわけで、文化人類学では、評価をせず、ただひたすら観察を進める。

善悪の評価を下さない。ただひたすら観察し、発見することを楽しむ。この文化人類学の姿勢を、私は自己分析にも応用した。価値規準を持ち込まず、善悪を判断せず、ただひたすら自分を観察し、発見できたことを楽しんだ。すると、私という生き物の生態が見えてきた。そうして、呪いは解けた。

私は人間にむやみに期待しない。人間は人間でしかない。しかし逆に、人間は人間だから、ここをこう押せばこう反応することが多いよね、と試すと、高い確率でそうなるし、そうならなかったらならなかったで、「これは今までに見たことないパターンだぞ、興味深い」と観察し、発見することを楽しむ。

人間は人間でしかない。けれど、人間は人間である。だから、楽しくなるとのめり込むし、嫌になればやりたくなくなる。ならば楽しめるようにすればよいし、嫌になる原因があるなら、無理をせず、それを取り除くところから始めればよい。人間に過度な期待もせず、でも失望もしない。だって人間だもの。

「人間なんて」とこき下ろすことも必要ない。人間をことさらに素晴らしいという必要もない。卑怯だし、弱虫だし、すぐいきがるし、増長するし、傲慢だし。でも気が良くて、優しくて、面白くて、笑えて。みんなひっくりめて、全部人間。否定する必要なんかない。だって人間なんだから。

評価を下すことで見えなくなることがあるのがバカ臭い。評価なんかどっかに放り投げちゃえばよい。観察し、発見して楽しめばよい。
私が「評価」を利用するとすれば、それは観察する着眼点として。重さだったり長さだったり温度だったり質感だったり。

いろんな評価軸があるから、いろんな評価軸を当てはめて、「なるほどなあ、この評価軸を当てるとこんな風に見えるのかあ」と、着眼点を明らかにしてくれるものとして利用する。しかし、もちろん「じゃあこっちの評価軸だとどんな見え方するんだろう」と、評価軸をどんどんすげかえる。

だって評価するのが目的ではなくて、観察するのが目的だから。評価軸は、観察するための手段に過ぎない。着眼点の一つでしかない。だから特定の評価軸に縛られる意味が分からない。縛られたら、福永少年が「曲がっている木」にしか見えなくなったように、見えないものばかりになってしまう。

呪いの解き方。特定の評価軸で見ることは観察を楽しむ邪魔だから、やめちゃう。どうせ評価軸を持ち込むなら、たくさん持ち込んで観察を楽しむ。でもできれば、評価軸をうっちゃって、虚心坦懐に、五感を開いて観察する。そして、発見を楽しむ。すると呪いさえ、観察対象として面白い。

私は二十歳になってから3年間、自分の棚卸作業を行った。メモした量は段ボール1箱分になる。それが今の私の基礎になっている。もちろん、当時は若かったから、何もわかっていなかった。けれど、気づきが芽生えていたのは確か。呪いはその時から解け始めていた。

いくつになってからでも構わない。変に価値規準を持ち込まず、自分を評価せず、自分を虚心坦懐に観察し、発見を楽しむ「棚卸」をやってみるのは、とても面白い作業になる。俺って人間、面白いなあ、となる。面白ければ、否定する必要もない。あばたもえくぼ。欠点もひっくるめて、その特徴が面白い。

もし呪いにかかって苦しい人がいたら、棚卸がおすすめ。自分を虚心坦懐に観察し、自分とはどういう生き物なのか、一つ一つ発見していく作業を楽しんでみてほしい。案外、面白い生き物。自分というのは。なにせ、この世に同じものがない。ぜひ、楽しんでみていただきたい。

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