「大学に行けなくても苦難から逃げなかった自分」との伴走

学歴や地位を自分の努力で勝ち取った、という考え方はあまり好きではない。それには私自身の原体験もある。
ちょうど大学受験のタイミングで母が死病にかかった。父からは「大学に行かせてやれない」と言われた。経済的にも最悪の時期で、どうしようもなく。父は母の余生充実に集中するという。
https://twitter.com/georgebest1969/status/1567702673776050176?t=8Z_8QCoq7_Z-7SmatUHPCw&s=19

病名を母には伏せていたので、私も受験生として一応それまで通り過ごした。模擬試験でよい成績を取って喜ばせた。実は、母がいない家の家事をこなすのが大変で、勉強どころではなくなっていた。やむなく、センター試験タイプの模試だけに特化した学習をして、入院中の母の目をごまかしていた。

幸い、母は死病ではなく、生還できた。まだ中学生、高校生の弟たちは部活に忙しく、帰って来ない。浪人生の私に家事がどうしても集中しやすい。家事に追われてどうにも受験勉強する時間が取れなかった。なのにその前に特化した学習をしてたものだから、センター試験は異様に高得点となった。

これでみんな勘違いした。「もしかしたら本当に京大に受かるかも」。しかし私は二次対策が全く取れてないことを自覚していた。それにはあまりにも時間がなさすぎた。しかし予備校の講師も周りもセンター試験のこの成績で京大受けないのはおかしいと言うし、誰もが勧めるのもあり、つい受けた。落ちた。

すると、「京大受かるかも」とチヤホヤしていた人達がスーッといなくなった。しかし、私はこの結果を仕方ないと思っていた。どう考えても時間がなかった。時間のない中で最大限の努力はした、という思いがあった。何より、母の長期入院で余儀なくされた家事から逃げなかった、という自信があった。

だから中堅大学に通うことに決まったのも、それなりの納得感はあった。ところがどうも母の悔しがり方がいつまでも続いた。周りに合格すると言いふらしでもしてたんだろうか。残念でならないといった様子。

ある日、母が私に近づいてきて「あんたは京大どころか、阪大も神戸大もよう受からん実力やったんや、と思うことにすればいいんやな」と捨て台詞を言って立ち去った。
私はしばし呆然。あれ?母が病気の間、誰が家事やってたんだっけ?家事が忙しくて勉強の時間なかったんだけど?

父が帰って来たとき、私が真っ青な顔をしてるのを見て、何があったのかを尋ねられた。
その後、父激怒。「お前が入院するから信が勉強する時間失ったんやろが!」どうも母は、京大に落ちたことが悔しくてならず、自分で納得するための理屈を私に言ったまでだったらしいけど、私がこたえたのは。

京大に合格することよりも、家族を守るために家事から逃げなかった、という誇りが私にはあった。だから、必要以上に悔しがる気持ちはなかった。ただ、働きづめで体を壊した母のために家事も頑張ったつもりだったのに、その人からそのことを大して認めてもらえていなかったことにショックを受けた。

残念ながら家族の経済的苦境は続いており、ついに財布の中に110円しかなくなった。今日、60円のカップコーヒー飲んだら、もう明日は飲めないな。
大学に通うのを諦めてアルバイトに専念。それでお金を貯めて、もう一度京大を受験し直すことにした。

今度は二次対策をみっちり。母もようやく体力が戻り、家事をやってくれるようになったので、勉強時間を十分にとれるようになった。
翌年、合格。父、母、弟たちの支えもあり、合格することができた。

ただ、母から「京大受かってうれしかったやろ」と言われたとき、微妙な気持ちになった。それを肯定したら、たとえ受験勉強の時間を失い、京大に合格できなくなったとしても家事から逃げなかった自分を否定することになる気がした。私はそうしたくはなかった。その時の自分に誇りを持ちたかった。

実はそれまでに一人、私の心を救ってくれた人がいた。道向かいの家のおばあさん。京大に落ちたあと、中堅大学に合格した。その翌日の朝、そのおばあさんが家に訪ねてきて、「あんた、本当によう頑張ったね、お母さん病気の間、家のことを全部やって。あんたは本当に偉い。この度は、本当におめでとう」

周りは京大に落ちて残念だったね、という人ばかりだった。そのおばあさんだけは違った。京大だとかどうとか関係なく、母親が病気の時に家事から逃げなかったことを認めてくれた。ちゃんとそれを見ていてくれた。だからどんな大学であろうと、合格したのを喜んでくれたのだろう。

私は何より、自分が苦しんでいたときをきちんと見ていてくれていた人がいたことがうれしかった。そのときに頂いた合格祝いは、今も手を付けずに大切に保管してある。
できれば母にも、京大に受かった息子を自慢するのではなく、家族の危機から逃げなかった息子を自慢してほしかった。

私が京大に合格できたのは明らかに家族のサポートがあったからだし、とてもではないが自分の力だけで合格できるものではなかった。家事や仕事をしながら受験勉強するのはムリがある。自分の実力で勝ち取った、なんてとてもではないが思えない。

それに、京大のような難関校に受かったから恵まれて当然だ、なんて思えない。もしそんな考え方をしたら、家族の危機から逃げずに踏ん張ったかつての自分を否定することになる。私はもしかしたら、大学そのものを諦めなければならなかったかも。母がたまたま死病でなかったから。運がよかっただけ。

私は今も、母が死病だった場合の、大学に行けなかった自分と伴走している。君は元気にやっているだろうか。君は逃げなかった。誇りに思うべきだ、誰にも恥じない生き方をしている、と言ってやりたい。私は、もしかしたらそうだったかもしれない自分に恥じない生き方をしようとしてきた。

私は、もしかしたら大学に行けてなかったかもしれない自分を見下す気にどうしてもなれない。道向かいのおばあさんが光を当ててくれた、家族の危機から逃げなかった自分を誇りに思いたい。だから、学歴を自慢する人の気持ちが、私にはピンとこない。

世の中には、家庭などいろんな事情で進学を諦めざるを得なかった人がたくさんいる。私ももしかしたらその一人だったかもしれない、その人たちは、苦境の中でも頑張ってきた人たち。何を恥じることがあるだろう。むしろ胸を張り、誇りを持つべきだと思う。

私はそう云う人たちに敬意を抱く。学歴だとか地位だとかではなく、その人が苦難から逃げずに立ち向かったどうかを見たい。向かいのおばあさんが教えてくれたのは、そうした視点。私は、道向かいのおばあさんのようになりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?