幼児化する上司と大人の上司

人の上に立ったり親になったりすると、人間は一部幼児化する面があるらしい。
赤ちゃんは泣くことで、腹を満たすのも下の世話をしてもらうのも親にやってもらうという、自分の意のままになる時期を過ごす。ところが幼稚園・保育園あるいは小学校で。

自分の意向が全く通らない他人と出会う。やがて、他人は自分と同じような存在であり、他人を意のままに動かそうなんて無理な話なんだ、と理解する。
他人をどうこうしようなんて無理、という認識が二十年ほど続くのに、人の上に立ったり親になったりするタイミングが現れると。

他人を意のままに操れるかもしれない、という、赤ちゃんの時の欲望がまた復活する。だって、オレは部下に権力をもつ上司だもの。私はこの子の生殺与奪を握る親だもの。部下に、子どもに服従を求め、自分の存在の大きさを認めさせようと、承認欲求をぶつけたり。「どうだ、オレはすごいだろう」。

しかし本来、上司や親という立場は、部下や子どもの能力を引き出す立場であり、彼らの承認欲求を満たす側。なのに権力があると思い違いし、自分の凄さを認めさせようという幼児的欲求が頭をもたげる。でもそれをやってしまうと、部下や子どもの能力は引き出せず、むしろ萎縮させる。

いわば、上司の下手ゴルフにつきあわせるようなもの。「どうだ、今のショット!」と鼻息荒く部下に自慢、部下は上司の機嫌を損ねぬよう「ナイスショット!」と言いながら、いかに上司より下手なフリをするか、必死になる。こうして幼児化した上司の元では、部下は上司の能力を超えないよう心がける。

上司や親は、部下や子どもの能力を最大限解放し、さらに伸ばす立場。そして彼らの承認欲求を満たす側。これが逆にならないよう気をつける必要がある。そのため、自分が支配者であるという勘違いを改め、自分の承認欲求を満たす役割を、部下や子どもに求めないやり方を模索する必要がある。

吉川英治「三国志」に出てくる孔明は、不世出の大天才として描かれる。が、奇妙な点もある。ライバルの司馬懿の元に、孔明から使者が。司馬懿が孔明の働きぶりを訊くと、「刑罰は小さなものもご自身で裁くなど、大変な働きぶりです」。これ、ほめてない。部下に任せりゃよいのにできてない。

もしかすると孔明は、自分の承認欲求を満たしたい側で、部下の承認欲求を満たせない人だったのかも。そんなエピソードがある。「三顧の礼」と「泣いて馬謖を斬る」。
孔明は、劉備玄徳が三度も孔明宅を訪問してやっと仕える気になる。劉備のおかげで強く承認欲求を満たせたのかもしれない。

他方、自分の後継者だと強く期待していた馬謖には、その承認欲求を満たしてやれなかった。重要な作戦を任せる際、孔明は「山の上に陣地を築いてはならない」と、口酸っぱく馬謖に命じた。自分の能力は高いと信じる馬謖は、孔明に子ども扱いされたようで面白くない。わざと山上に陣を築いた。

しかしその山は水源がなく、水源を敵に確保された馬謖軍は、あっさり負けた。孔明は命令違反した馬謖を、泣きながら斬った。このエピソードは通常、馬謖の才を愛しながらも情に流されることはなかった孔明の偉さ、美談として語られる。しかし。

もし孔明が、馬謖に命じるのではなく、馬謖に「この山の上に陣を築いたらどうなると思う?」を問いを発していたら。優れた馬謖のこと、すぐ山上だと水源がなく、兵法の常識な反して、この山で陣を築いたら干乾しにされる危険に気づけたろう。孔明にそう説明し、山上に陣を作ることもなかったろう。

山上に陣を築いてはならない、という作戦を思いついたのは誰か、という承認欲求を、馬謖に譲ることができていたら。馬謖は死なずに済んだろう。軍も負けずに済んだろう。しかし孔明は、自分の作戦として語ってしまった。自分の承認欲求を満たしてしまったのかもしれない。

馬謖を斬る事件を見たら、部下たちはどう思うだろうか。孔明の命令に逆らわないようになるだろう。自分の判断で動くのをやめ、いちいち孔明に命令を仰いで、孔明の指示をもらおうとするだろう。孔明が小さな刑罰まで全部見なきゃいけなくなったのは、全軍指示待ち人間にしてしまったからかもしれない。

他方、孔明の主君である劉備玄徳は、部下の承認欲求を満たす達人だった。二十代の若造である孔明の家に三度も出向き、ついに孔明は承認欲求を満たされ、劉備のもとで仕える決意をする。
劉備が死ぬ際には、「息子がアホだったら君が皇帝になれ」と孔明に言い、感激した孔明は絶対忠誠を誓う。

劉備には、孔明のような知力はない。むしろ孔明よりはるかに劣る。劉備は、武力もない。関羽、張飛、超雲のような豪傑達と太刀打ちできるはずもない。劉備は、体力知力ともに彼らより劣っていたのに、彼らに君臨した。なぜか。彼らの承認欲求を徹底的に満たす人だったから。

吉川英治作品に基づいたマンガ版、横山光輝「三国志」には、超雲が敵軍百万に囲まれつつも、なんとか劉備の子を救い出すシーンがある。劉備は超雲と出会うと、息子の安否より、超雲を失ったらどうしようと思った、と、超雲の身を案じた。超雲は感激し、以後、粉骨砕身の活躍を見せ続けることになる。

特段の才能がない劉備が、孔明のような天才、関羽など豪傑達を従えることができたのは、むしろ彼らにへりくだり、彼らの才能、功績を認め、その承認欲求を満たす側に常に立つよう心がけていたからだろう。だから部下たちは劉備のため、才能を遺憾なく発揮したのだろう。

人の上に立って支配者になったように勘違いすると、むしろ上司が部下に承認欲求を満たしてもらおうとしてしまう。けれど、本来上司とは、部下の承認欲求を満たすことで、彼らのパフォーマンスを引き出す立場。自らの幼児的欲求をいかに抑え、部下の承認欲求を満たすか。それが上司の心得なのかも。

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