親・教師がどうふるまうべきかよりも、なにより「子どもを観察」

私が子どもの頃、親たちが教育方針について熱く議論を交わしていたのを思い出す。厳しく育てる、愛情こめて育てる、放任主義、の3種類があるといい、それぞれの教育方針の長所と欠点を議論していた。まあ、酒を飲みながらの話だからどこまで真剣かは別として、度々議論していた。

私は子どもながらに、どの教育方針をとったらよいのだろう、と考えていた。厳しく育てたら逆に反発して不良になることも。愛情こめて育てたら甘やかしたことになり、不良になるかも。放任していたら好き勝手やるようになり、やっぱり不良になるかも。
なんだ、どの方法も完ぺきではないな。

トシをとってようやく気がついた。厳しく育てるのも、愛情深く育てるのも、放任主義も、「親がどうふるまうか」を語っているだけで、子どもを観ていない。子どもを観察していない。自分の振る舞いを語っているだけだ、ということに気がついた。

厳しく育てるのも、親が「自分はやれるだけのことをやった」という言い訳を用意するためなのかも。愛情深く育てるというのも、「私は自分を犠牲にしてでも、子どもに愛情を注いだ」というアリバイを作っているのかも。放任主義も、単に自分が面倒くさいのを言い訳しているだけなのかも。

教育系雑誌でインタビュー記事を載せてもらったことが何度かある。どれも例外なく「教師はこうすべき」「親はこうすべき」と、指導する側の振る舞いのことばかり書いた記述に化けてしまう。「私はそんなこと言ってねえ!」と、全部書き換えてもらう。

インタビューでは、私は「子どもの様子がもしこうだったら、心の中はこうである可能性があるので、教師(親)はこうしたほうがいいかも」と答えるのだけれど、なぜか前半の子どもの様子がすっ飛んで教師と親の振る舞いばかり書いた話に化けてしまう。

どうも、教育系雑誌には、教師や親に「こうふるまうべき」というべき論を論じるのが当たり前、という図式があるらしい。私はそれを否定する。まず、子どもをよく観察すること。教師が、親がどうふるまうかはすべてその後で決めること。子どもを観察する前に振る舞いを決めてどうする?という感じ。

子どもをよく観察すると、「こうしたほうがいいのでは?」という仮説が自然に浮かんでくる。その仮説に従って、これが適切であろうか、という対し方を試してみる。しかしこれはあくまで仮説。うまくいかないことも多い。そしたらまたよく観察し、新たな仮説を紡ぐ。その繰り返し。

よく観察し、仮説を紡ぎ、試してみる。その繰り返しで、だんだんと観察のち密さ、仮説の精度、試行錯誤の要領の良さが磨かれてきて、だんだんと「こういう場合はこうしたほうがいいのだな」という経験則も積みあがってくる。しかし経験則は経験則。絶対はない。所詮、経験則も仮説にすぎないのだから。

私が教育系雑誌でお話ししたのは、比較的経験則として積みあがってきた、妥当性が高いだろう仮説についてなのだけれど、それでもどの子にも通じるとは限らない。その子が、私の考える状態にあるとは限らないからだ。だから観察が何より大切。そして、観察から紡がれる仮説が重要。

私は子どもと対するとき、自分がどうふるまうかを事前に決めることはしない。もちろん、事前に思考実験を済ませておいて、「まずはこうスタートして、子どもがどう反応するか見てみよう」とはするが、予想と違うことが非常に多いので、目の前の子どもを観察するのを最重視する。

そして、目の前の子どもを観察する中で、自分の心がその瞬間ごとに紡ぎ出す仮説を踏まえて、「こうしてみたらどうだろう?」を試してみる。すると、一人一人の子どもに合わせた接し方というのが、自然に紡ぎ出されていくように思う。

厳しく育てるのも、愛情深く育てるのも、放任主義も、子どもを観察することより、親である自分の振る舞いに注意が向かってしまっている。これでは子どもを観ていないことになる。これが大問題のように思う。まずは子どもを観察すること。観察から紡がれる仮説に基づいて、試すこと。

昔みたいに、「厳しく」「優しく」「放任」という雑な3類型で教育が語られることがなくなってきたのはよかったと思う。けれど、まだまだ教育界では、教師や親の振る舞いに着目した教育論が多すぎるような気がする。だから教育系雑誌の編集者は、そうした文章を書いてしまうのだろう。

教師や親がどうふるまうとよいかは、目の前の子どもが決めること。しかも、子ども自身もどうしてもらいたいかは分かっていない。言語化する力がまだまだ弱いのだから。だから、大人である教師や親が子どもをよく観察し、仮説を紡ぐ必要があるのだと思う。

教育論は、「教師が」「親が」と、指導する側を主語にして組み立てるとまずい気がする。「子どもは」いま、どんな状況にあり、どんな思いを持ち、どんな様子でいるのか。子どもを観察し、汲み取れるものから仮説を紡ぎ出すことしか、教師や親はできないのではないか。

「厳しく」「愛情深く」「放任」の3類型の教育論は、子どもを観ず、指導する側の振る舞いばかり見ているという点で、問題ありかな、と思う。子どもの様子によっては、厳しく見える接し方が必要なこともあるし、優しく接するほうがよいときもあるし、そっとしておいたほうがよいことも。

今、子どもにとって適切な大人の接し方は何か。それは子どもを観察することから紡ぎ出されるものだと考えておいたら、間違いないように思う。
教育系雑誌の編集者の皆さんも、文章を紡ぐ際にそれを意識して書いていただけるとうれしいな、と思う。

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