「気づき」は才能の有無で決まるのか?

「気づきが得られるのは才能があるから」というご意見を頂いた。私はそうは思わない。私自身、気づきやひらめきといったものからとても遠い存在で、気づきが全然得られないことにずっと苦しんできた人間だからだ。だから気づきがどんどん得られる人が羨ましくて仕方なかった。

小学生の頃、学校の課題で版画をやことになり、木の板を彫っていた。それを見た弟が「自分も板が欲しい」と言って、私の彫刻刀を借りて何かを削っていた。できたのはスプーン!私は衝撃を受けた。どうやってスプーンを削り出そうという発想が生まれたのか!

私は削るのが面倒で、絵も削るのが少なくなるようにしていた。そんな様子からスプーンを削り出す発想にはなりにくい。それに今では木のスプーンもよく見かけるが、我が家にはそんなものは一つもなかった。見たこともなかった。だから衝撃だった。

私もスプーンを彫ってみたくなり、親に板をねだったが「あんたはマネしたいだけやろ」と一蹴された。まあ、その通り。
後に作陶家になった弟は、常に私の思いもしないようなひらめき、アイディアで作品を作り、図画工作の成績は常に5。私は3、まれに4。才能はみな弟に持っていかれた。

私は弟に勝てないだけでなく、クラスでも飛び切り鈍感だった。みんなが気づくことに私は気づけない。運動も苦手。ひたすら不器用。その劣等感から意固地にもなっていた。でも内心は、器用に何でもこなし、同じものを見ても全く異なる発想ができる人たちをうらやましく思っていた。

大人になってから、何とか器用者のマネをできないものか、と考えるように。私みたいな不器用者でも新発想、気づきを得ることができるようにならないか、観察するようになった。器用な人はいったい何を手掛かりに「気づき」を得ているのか?もし自分が気づこうとしたら、どんなコツを磨けばよいのか?

そうして気づいたコツの数々をまとめたのが、3冊目の本「ひらめかない人のためのイノベーションの技法」。ここに書いたようなコツを実践すると、不器用で人から良く笑われていた私が、「創造性豊か」と人から評されるようになった。昔はお世辞にも言ってもらえなかったのに。
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では、コツをつかんでない人は生涯不器用で気づきは得られないのかというと、ちょっと注意を要するように思う。子どもは、特に幼児は、多くが「気づきの天才」だからだ。

高齢者にスマホを渡すと「ええ?これどうしたらいいの?変なことやって壊れない?」と怖がって、なかなか進歩しない。操作も覚えられないし、覚えた操作も自信なさげ。新しい操作方法を覚えるゆとりなんか全然ない。かたや赤ちゃんにスマホを渡すと。

あれこれ触っている間に、タップすれば新しい画面が開くことが分かり、指を動かせば城ケ左右に動かせ、2本指で広げれば画像が拡大することも見抜いてしまう。赤ちゃんや幼児は、次々と自力で「気づき」を得る天才と言える。

ところが小学校、そして中学校へと進むと、気づきを得るのが難しい子どもが増えていく。正解以外の答えを出すことを恐れ、正解を教えてほしいとばかり言うようになる。同じものを見てもどこかで見聞きしたこと、知っていることを探し、知らないものには一切気づかなくなる。

ナイチンゲールに次のような言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
そばにいて、同じものを見ても気づかなくなる。でもなぜ?幼児は気づくのに?

赤ちゃんや幼児は、実によく観察している。新しいおもちゃを見たら、とりあえず触りたくる。床にたたきつけて強度を見る。投げたらどんな音がするのか調べてみる。かじって味を確かめる。五感を駆使して、ありとあらゆる情報を手に入れようとする。知らないもの、気づいていないものを探す。

そう、観察とは、自分の知らないもの、気づいていないことを探そうとする行為。目に入る景色を漫然と「見る」のとは全然違う。観察は、同じ景色を見るのでも、自分の知らない変化はないか、まだ注目したことのないものがそこにないか、と、知らないこと、気づかなかったことを探すこと。

幼児はそれが得意。幼稚園や保育園に通う道すがら、道路わきに咲く花に気づき、側溝の水の流れを観察し、ご近所の人が今日は顔を出していると気がつく。自分の知らないこと、気づいていなかったことを常時探している。それが赤ちゃんであり、幼児。観察することの天才。

ところが小学校に入り、中学校に進み、と、進学を重ねるうち、観察力を失っていく。知らないこと探し、気づいていないこと探しをやめ、知っていること探し、正解探しばかりするようになる。そうして、観察力を失い、気づきが得られなくなってしまう。まるでそれが「大人になること」であるかのように。

気づきが得られるかどうかは、恐らく才能ではない。正解を求められ、違う答えをするとバツを食らうという学校生活になじみ、その価値観で常に評価されているうち、正解以外のことに興味を持つことは許されない気分になってしまうから、「知っていること探し」をして、観察をやめてしまうのだろう。

まだ言葉も十分使えず、親の言っていることもよく分からない赤ちゃんや幼児は、正解のことなんて心配しなくてよいから、遠慮なく目の前の事物と取っ組み合いをして、観察し、気づきを得ていく。だから赤ちゃんや幼児は長足の進歩を遂げるのだろう。けれど「正解恐怖症」に陥ると。

知っていること探しばかりするようになり、知らないことは価値がないと思い込み、知らないこと、気づいていなかったことに気づこうという発想を失うのだろう。このために「知らないこと探し」であるはずの観察をしなくなり、気づきも得られなくなってしまうのだろう。

だとすれば、多くの人が気づきを得られなくなってしまうのだとしたら、それは後天的な経験によって気づきを価値なしと思ってしまった結果のように思う。気づきを得るための赤ちゃんや幼児が持っていた能力(恐れず試行錯誤し、観察する)を失った結果なのだと思う。

私の職場に来るスタッフはみなさん優秀。私の気づかなかったことにも気づき、「篠原さん、こうしたほうがいいのでは?」とアドバイスしてくれることが日常茶飯事。実に助かる。ただこの人たちの中には、気づきを得るのが苦手だったろうな、という不器用だった人もいる。でも。

うちの研究室では、来てもらった最初の1~3か月、「失敗への恐怖」を解除する研修を行う。あらかじめ危険性のない業務を選んだうえで、散々ぱら失敗してもらう。そして失敗は気づきを得る素晴らしいチャンスであり、こんなに楽しめるものはない、ということをお伝えする。

危険がなく、取り返しのつく失敗をこの時期になるべく経験してもらう。そしてあえてわざと失敗してもらい、「さて、これ、どう解決したらいいでしょうね?」と問いかける。初めての実験だから、働き始めたばかりの人にはもちろん見当がつかない。そこで私は着眼点を示す。「ここ、どうなっています?」

見たまま、観察したままを口にしてもらう。「なるほど、ではここは?」と、次々に着眼点を示し、答えてもらう。そうして一緒に観察を重ね、「では、先程答えてもらったように、これはこうするとこうなるということは、どうしたらいいですかね?」と問うと、正しい操作方法が推測でき、答えてくれる。

こうして失敗しては、「やった、失敗しましたね。さあ、観察を楽しみましょう」と言って、実際に失敗を嫌がるどころか楽しむ感じで一緒に観察し、気づいたことを言ってもらうを繰り返すと、次第に新人さんは、こちらが問う前から観察し、気づきを言ってくれるようになる。

観察するようになるものだから、これをしたら次はどうなるかという見当がつくようになり、1カ月もするとほとんど失敗しなくなる。新しい業務をお願いしても観察するから見当をつけ、何をする必要があるかの気づきも得てしまう。だから、放っておいても仕事してくれるようになる。

私の研究室のスタッフは全員、自ら観察し、気づいたことを私に伝え、「こうしたほうがいいと思います」と、解決策まで提案してくれる。大概、それらはとても適切で、私はゴーサインを出すだけで済む。とてもラク。私の研究室のスタッフは全員、気づきを得るのがとてもうまい。

「研究室ということは勉強のできる人間ばかりなんだろ、だからだよ」と指摘する人が結構いるので書いておくと、うちに来てくれたスタッフは高卒の人も多く、しかも文系だったり商業高校だったり。研究なんか一つもやったことがない、という人がほとんど。でもみなさん、優秀で自律的。

「失敗への恐怖症」が観察することをためらわせ、「知っていること探し」ばかりするようになり、気づきが得られなくなっているのではないか。失敗への恐怖を解除し、失敗しても観察して気づきを重ねればよいのだ、と納得すると、ワンサカ気づきが得られ、解決策を自ら紡ぎ出せるようになる。

私のところに来る学生の皆さんも、研究室スタッフも、みんな観察できるようになり、気づきを得ることができるようになっていくのを見ると、かなり多くの人が後天的に気づきの能力を邪魔されているだけで、それは解除可能なのだと思う。

正解への呪縛、失敗への恐怖。これらの「呪い」があるせいで、私たちは気づきを得るのが難しくなっているのではないか。私自身、その呪いにかかっていて、大人になって解除するのに苦労した。その件については、特に4冊目の本に集中的にまとめてある。
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就学前の、赤ちゃんや幼児の頃には多くの人が持っていた観察する力、試行錯誤する力、気づく力。それらを、正解への呪縛、失敗への恐怖という「呪い」が奪ってしまったのだと思う。それに気づけば、私たちは呪いの解除の仕方が見えてくるのではないか。そう考えている。

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