よい上司、よい親という呪い

よい上司になろう、よい親になろうとすると、なぜか私たちの言動はチグハグでぎこちないものになる。よい上司とは、を論じてる記事や本を読み、それをその通りまねようと「よい上司変身パーツ」を装着してスーパー上司になろうとするが、ことごとく的外れな言動になる。なぜだろう?

それはおそらく、自分ばかり見ているから。自分が周囲から、部下からどう見えるか、その外面的な見え方ばかり気にするからだ。これは無理もない面も。「よい上司とは」を論ずる記事や本はたいがい、外面的に上司がどう見えるか、どんな風にかっこいいかを論じたものばかり。外面が気になってしまう。

「上司になろう」は忘れちゃった方がよい。自分がどう見えるかなんか考えず、ひたすら部下をよく観察し、部下がいま何を思い、どう感じてるかについて推察する。そして、どんなインプットがあるとどんな反応をしそうか、仮説を立てる。その中で良さそうなのを試してみる。その反応をまた観察する。

自分を見ずに、自分の外側の殻を見ずに、部下の内面を見ようとする。観察する。そして、どんな言葉かけ、接し方をしたら部下はどんな反応をしそうか、仮説を立てては試してみる、という試行錯誤を繰り返す。すると、不思議なことに、臨機応変な対応が次第にとれるようになる。

「新インナーゲーム」で、バックハンドを上手に打てるようになったテニス教室の生徒が。それをほめた途端、動きはぎこちなくなり、ホームランかネットばかり。生徒、頭真っ白。
そこで声かけを変えてみた。「ボールの縫い目をスローモーション見る気で観察して」。またバックハンドが入るように。

なぜか。おそらく、「バックハンドが上手に打てる自分」という外面を気にした途端、自分(しかも外面の自分)ばかり見るようになり、ボールを見なくなったため。
ボールの縫い目を見ることで自分の外面が気にならなくなり、無意識が心身の操縦権を取り戻したのだろう。

私たちは自分を意識し出すとぎこちなくなる。いわゆる「自意識過剰」だ。自分が周囲からどう見えるかなんか忘れて、目の前の人がいま何を感じ、どんなインプットがあればこの人はどんな反応をするのだろうか、と、目の前の人を観察、そして仮説を立てること。すると、心身の操縦権が無意識に移る。

だいたい、意識というのは心身の操縦が苦手。へたくそ。なのに、自分の外面を気にするようになると、目の前の人も見なくなり、自分の内面の身体感覚さえ無視するようになる。だからぎこちなくなる。
目の前の部下を観察すること。仮説を立てること。思い切って試行錯誤を繰り返すこと。

私の書いた上司本や子育て本の特徴は、上司がどんな風に見えるか、親がどんな風に見えるか、を一切書いていないこと。いま、目の前の部下が、あるいは子どもが、何をどう感じてるか、観察し、仮説を立て、適切と思われるインプットを試してみる、ということばかり書いてる。自分の外面、無視。

威厳なんかどうでもよい。怖がられる上司かどうかもどうだっていい。尊敬されるかどうかもお構いなし。ただひたすら、部下を、子どもを観察し、仮説を立て、試行錯誤を繰り返す。ただそればかりを書いている。その方が意識から無意識に心身の操縦権が移り、適切な対応が思いつくようになるから。

「上司になろう」「親になろう」としないこと。ただひたすら、目の前の部下や子どもを観察し、差分を見つけるゲームに熱中し、仮説を立て、試行錯誤して改善策を見つけるというゲームを楽しむつもりで。すると、次々に発見ができると思う。部下は、子どもはこんな人間であったか、と。

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