部下や子どもは同じ景色が見えていない

部下や子供を指導する際、陥りやすい誤りがある。「同じものを見ているんだから同じものが見えているだろ?」というもの。残念ながら、人間は同じものを見ても同じものが見えない。そのことを踏まえて指導しないと、「なぜこれに気づかない?」ということにイライラしてしまう。

テレビ番組でも、映像がジワリジワリと変化する場合、どこが変化したのか分からない、というのを体験させられることがある。着眼点を示されれば「あ!」と気がつくのに、着眼点が分かっていなければ、全然気づくことができない。

ドラえもんの出した宝探しゲームの箱にママのネックレスを入れたのび太。地図を手掛かりに探すと、その場所には埋蔵金を掘り出そうとする別の人が。「ママのネックレスがとられては大変!」と思ったのび太は、ジャイアンとスネ夫に助っ人を要請。必死になって穴を掘った。

ジャイアンとスネ夫が古い木箱を掘り当てたけどのび太は「違う!こんなのじゃない!」と放り出してしまう。ようやく、ママのネックレスの入った宝箱を見つけて、ジャイアンやスネ夫にプラスチックのお宝を山分け。その後ろで埋蔵金探ししていた人が、古い木箱から大判小判で喜んでいた、という結末。

のび太は自分の見知っている宝箱以外は目に入らない状態になっていた。古い木箱は大判小判が入っているかもしれないのに、のび太からすれば「ママのネックレスとは関係のないゴミ」でしかなかった。目にしても目に入らない。私たちは、自分の見たいものしか見えないという特徴がある。

これは部下育成や子育てでも重要な視点。上司あるいは大人である自分は、いろいろな経験を積んできて、何に気をつけなければならないかを知っている。様々な着眼点を持っているから、どこに気をつければよいかが分かる。同じものを見ても着眼点を手掛かりにいろんな情報が得られる。

しかし部下や子どもは未体験。未体験だと着眼点がさっぱり分からない。着眼点が分からなければ、上司や親と同じものを見ていても、何を見ているのか気づかない。気づいていないのに「なぜ分からないんだ!」と怒られても、何を言われているのか分からない。

人間は、同じものを見ていても同じ景色が見えているとは限らない。虫が好きな人は、「あ、○○ムシが飛んでいる」と気がつくが、関心のない人は、自分の周りでうるさく飛び回るのでもない限り気づきもしないかもしれない。人間は、自分の関心興味のあるものしか見えない、という点に注意が必要。

私は、部下や学生、子どもと接するとき、「この人(子)に見えている景色は何だろう?」と想像するようにしている。私に見えている景色とまったく違うと私は考えている。その人に見える景色はどんなものか見当をつけるには、「問う」ことで手掛かりを得るしかない。

「このままいくと多分うまくいかないのだけれど、どこが問題だかわかる?」と問うと、部下や子どもは「え?」と言いながら、鵜の目鷹の目で探す。しかし当然ながら着眼点を知らないから分からない。すると、「あ、着眼点を僕とは共有できていなかったんだな」ということが分かる。

さらにヒントとなる問いを発する。「ここのところ、どうなっているかな?」と訊くと、「こうなっています」と答えてくれる。「だとすると、これはこの後、どうなるかな?」とさらに問うと、「あ!ここがこうなって、大変なことになります!」と気づいてもらえる。私は「よく気づきましたね」と驚く。

このように、問いを手掛かりに着眼点を提供し、そこを観察してもらう。そしてどうなるかを想像してもらい、仮説を立ててもらう。すると、何がどうなるのか、メカニズムまで頭に入るようになる。自分で観察し、仮説を立てる場合、理解力が断然高くなる。

しかし全部言葉にして教えてもらうと、どうも頭に入らないことが多い。原因は三つほど考えられる。①言葉で教えると文字数が多すぎて、全部処理しきれない。②言葉の方が気になって肝腎の現物を観察するゆとりを失う。③分からなければまた教えてもらえばいいや、と、アウトソーシングしてしまう。

だから私は、なるべく言葉で説明しないようにしている。着眼点を示し、自分で観察するようにしてもらい、自分で仮説を立ててもらい、その結果どうなるかを予測してもらう。こうして、自分の目で見て自分の頭で考えてもらうと、理解力が断然違う。そして忘れない。

自分とは見えている景色が違うのだということ、そしてその人の景色で「見える」ようにするには着眼点を示す必要があること、着眼点を示しても言葉で説明してしまわないこと、その人に観察してもらい、仮説を立ててもらい、予測してもらう。これを「問い」によって実現する。

そのように指導するようになってから、一度教えればまず忘れることはなくなった。「忘れたら聞いてくださいね」と言ってあるけれど、「教えられる前に自分の力で気づきたい」と思うらしく、覚えている着眼点をヒントに観察し、仮説を立て、再度メカニズムの理解に努めてくれるようになる。

どこに着眼すればよいかが分かれば、観察し、仮説を立て、予測する、ということをやればよい、というコツがつかめた人は、以後、「どこに着眼点を持てばよいのか?」を探すようになる。気づいたことを意識化するようになり、前回と今回で違うところを見つけようとする。

こうなると、もう私が教えなくても、自分の頭で考え、行動できるようになる。私は示唆をするだけで仕事をしてもらえるようになる。おかげで、私は優秀なスタッフに囲まれ、楽に大量の仕事をこなせるようになってきた。ありがたいこと。

同じものを見ていても、人が違えば見える景色は違う。この当たり前のことを前提として人を指導する必要があると思う。そして、人は着眼点に気づかないと見えもしない、ということもわきまえておく必要があるように思う。そのうえで指導法を設計すれば、大きな誤りはおきないのではないだろうか。

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