関係性から考えるものの見方・・・社会構成主義

(ずいぶんと堅苦しい名前だけれど)社会構成主義の考え方、結構面白い。
アメリカでは中絶問題で世論が真っ二つに割れている。賛成派と反対派で議論すると、互いに相手の主張のおかしいところを攻撃し、自分の主張の正しさを訴える。話は平行線に終わり、関係性は断絶したまま。ところが。

リクツを戦わせるのをやめ、なぜ自分が中絶に反対するようになったのか、あるいは賛成するようになったのか、そのきっかけとなった個人的体験を語ってもらったところ、お互いに「ああ、そういう体験があると、そういう意見になるのは当然だよな」と理解と融和が進んだという。

この現象は興味深い。リクツというのは一見論理的で、論理的だからこそ普遍的なものだという思い込みがある。その普遍的なリクツから言えば相手の意見は非常におかしく矛盾に満ちていて、自分の理論こそ正しい、としか思えない。しかし相手は相手で同じことを考えている。ここに断絶が生じている。

しかし、個人的体験という、一般にはとても個別的で特殊事例にすぎず、普遍性がないと思われているものが、立場や主張の違いを超えて胸を打つ。なぜ中絶に反対するようになったか、それは親戚でこういう悲しい出来事があって。なぜ中絶に賛成するのか、それは妹にこんな出来事が起きて。

そう、不思議なことだが、個別的で特殊事例に過ぎないと思われがちな個人的体験の方こそ、立場や主張を乗り越え、共感できるという「普遍性」を備える。そして相互理解はもはや不可能とまで思われていた関係性が動き出す。社会構成主義は、こうした「関係性」に着目する特徴がある。

もうひとつ面白い事例が。「あさイチ」での実験。いくら「道路を飛び出ちゃダメ!」と叱っても飛び出てしまう子どもに困っている親子が複数、実験に参加。親に目隠ししてもらい、「君が安全に道路を渡らせなければいけないんだよ」とスタッフから言い聞かされた子ども。すると。

それまで左右も見ずに飛び出していた子どもが、必死に左右を何度も確認し、安全だと確信してもなお慎重に親の手を引き、横断歩道を渡った。どの子も一人残らず。親は全員驚いていた。今まで何度言っても左右も見ずに飛び出していたのに!

これは「関係性」が変わったからだろう。それまで子どもたちは、親が左右を確認してくれるに違いない、と、安全性の確認を親に「アウトソーシング」して、自分の興味の赴くままに動いていたのだろう。親も子どもの注意力を信じず、先回りして声をかけていたため、余計にアウトソーシング状態に。

しかし親が目隠しし、子どもの注意力に依存せざるを得なくなった時、子どもは「親の命を僕が預かっている」という責任をよく自覚し、持てる力を最大限引き出して左右を確認し、道路を無事に渡り切ろうとしたのだろう。関係性が変わったことにより、子どもの行動が大きく変容した格好。

私が「先回りせず後回りしよう」と提案しているのも、「関係性」を変化させるため。子どもにああしなさい、こうしなさいと先回りして指示すると、子どもは「今やろうと思ったのに」とやる気をなくしてしまう。先回りされると、それは指示命令されたからやったのだ、という形になってしまう。それだと。

片付けをした、宿題をしたのは自分なのに、指示命令した親の功績になってしまう。「あなたが片付けをしたのは、宿題をしたのは指示命令をした私のおかげ、あなたは指示命令しない限り動こうとしなかった怠け者」という「関係性」になっていることに子どもは気づき、すっかり嫌気がさしてしまう。でも。

「後回り」すると。子どもが動き出すまで待ち、例えばたまたまおもちゃを持ち上げて移動しようとしたときに「お!片付けするの?誰にも言われないのに、偉いねえ」と驚くと、片付けるつもりがなかったのに嬉々として片づけ始めたりする。

夜が更けてもなかなか宿題しようとしなかった子どもが、さあ寝ようという時間になってから「宿題やらなきゃ」と言い出したとき、「なんでもっと早くにやらないの、寝るのが遅くなっちゃうでしょう?明日遅刻するよ!だいたいいつもあんたは・・・」と小言を言いたくなる。しかしそこをグッとこらえて。

「宿題をやろうとするその心意気、いいねえ!でももう夜も遅いから、早めにね。○○分になってできなかったら、明日朝がんばろうか」と、子どもが能動的自発的にやろうと言い出したことに驚いて見せると、子どもは嬉しくなる。そして、能動的になることで親を驚かせようと企み始める。

「今日はもう宿題済ませたよ!」「え!何も言われていないのにやったの!」と驚いて見せたら、能動的に取り組もうという姿勢が湧いてくる。
命令して従わせようとすると、「いうことを聞かない子ども」と「私が命令するおかげで何とかなると考えている親」という関係性が固定化してしまう。しかし。

子どもが能動的に動き出すのを待ち、能動的に動いた時に驚く、という「後回り」の姿勢を親が持っていると、子どもは、能動的になればなるほど親を驚かすことができることに気がつき、親を驚かすためにますます能動的になっていく。後回りし、子どもの能動性に驚く、という姿勢が、関係性を変える。

私たちはついつい、「あいつは○○だから」とレッテルを貼り、それによって相手との関係性を固定化させてしまう。自分を正義の存在と定義して。相手を悪の存在として定義して。「存在」に着目すると関係性は変化しなくなり、事態は硬直化する。しかし。

「相手がこうだから」「自分はこうだから」と「存在」に着目するのをやめ、関係性を動かすには、変えるにはどうしたらよいか?と考え方をシフトさせると、面白いことに、関係性が変わった途端、相手も自分も変化してしまう。変わるはずがないと思っていた「存在」が、いともたやすく変わる。

それは、私たち人間という生き物が、関係性によってたやすく変化してしまう生き物だからだろう。親に見せる顔、友達に見せる顔、会社で見せる顔、他人に見せる顔、それぞれ微妙に、あるいは大いに違う人は多い。「キャラを演じる」ということは、場面場面でよくやっていること。

しかし、「この場面ではこういうキャラを演じよう」と、「存在」を固定化させてしまうために関係性が固定化してしまう、という問題がある。そのために関係性が悪化すると、とめどなく悪化するということも起こりうる。しかし、関係性は変わり得る。そして「存在」も。いや、実は「存在」は。

関係性の照り返しでしかないのかもしれない。「自分はこういう人間」「あいつはああいう人間」と「存在」を定義し、もはやそうした性質からは免れないと考えているけれど、関係性が変わるとゴロっと性格が変わったかのように態度が変わる。そう、実は「存在」はなく、「関係性」しかないのかも。

これまでの思想や哲学が、「存在」にばかり光を当てて「関係性」をほぼ無視してきたことに、社会構成主義は視点を逆転させて、関係性に着目する。これは面白い考え方であり、これまで解決不能と思われていたことも、ガラッと考え方を変えることができるかもしれない可能性を秘めている。

というのが、私なりの社会構成主義の紹介。にしても、この名前、実に堅苦しい。「関係性から考えるものの見方」と呼んだほうがよいように思う。堅苦しい名前、大嫌い。

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