「礼」という集団制御技術

今でこそ儒教といえば中国を代表する思想・哲学だけれど、実はいちど滅びかけたことがある。秦の時代、儒教本を燃やし、儒者を生き埋めにして殺す「焚書坑儒」が行われ、儒教は風前の灯火となった。しかも、秦の次の帝国、漢を建国した劉邦も、儒教嫌いで有名だった。

どのくらい嫌いだったかというと、儒者の服装(独特の服装なのですぐわかる)を見たら蹴っ飛ばすし、儒者が説教しはじめたらその冠を奪って小便をするという、ホンマに英雄か?というくらいガサツで分かりやすい嫌い方だった。

秦帝国時代に儒教は徹底弾圧されたし、次の帝国を築いた劉邦からも嫌われるとあっては、儒教もこの時期に完全に滅んでも不思議ではなかった。しかしギリギリ、儒教は生き残ることができた。それを可能にしたのが叔孫通という男。

叔孫通はたくさんの弟子を抱えた儒者だった。しかし劉邦が儒者の着る服装が嫌いだと分かったら、別の服を着るようにした。こうした叔孫通のやり方をご都合主義だと批判する人間もいたけれど、自分がいなくなれば儒教が亡びる、という危機感を持っていたから、ともかく柔軟に対応した。

劉邦は叔孫通に、適当な人物を紹介してくれと頼まれることがあった。叔孫通は弟子を勧めることなく、昔に盗賊をやっていたような男ばかり推薦した。弟子たちは「なんで私たちを推挙してくれないんですか」と文句を言ったが、叔孫通は次のように諭(さと)したという。

「俺たち儒者は戦争では役に立たない。戦争で役に立つのは、乱暴なことも平気でやれる人間でなければならない」。叔孫通は、リクツっぽい人間になりがちな儒者の中で、非常に現実主義者だった。儒者が戦争に役に立たないことを重々承知していた。

やがて、劉邦は天下を統一、皇帝となった。ところが劉邦は皇帝になった気がしなかった。宮殿の中では将軍たちのケンカが絶えず、剣を抜いて斬り合うような騒ぎが毎日のように続いていたからだ。皇帝の面前でそれを繰り広げるのだから、偉くなった気がしないのも当然。

ここで叔孫通、「私にお任せ下さい」と劉邦に提案した。劉邦は格式ばったことが大嫌いだったけれど、毎日宮殿でケンカばかり起きる事態にほとほと困っていた劉邦は、「オレでもできる簡単なものにしてくれよ」と注文を付けて、任せてみることにした。

宮殿の儀式が始まっても、いつもはざわざわ私語が絶えず、ケンカがそこらじゅうで起きていたけれど、その日は様子が違った。「皇帝がおなりになります。ご静粛に」と宣言したにもかかわらず騒いでいる人間は、部屋の外に連れ出された。その様子を見て、みんな黙るように。

やがて厳かに音楽が鳴り、みんながなんだ?なんだ?と耳目を中央に集めたタイミングで「皇帝の、おなーりー」と高らかに声がして、劉邦が登場、「一同、礼!」と声がかかって、戸惑いつつも、周囲を見渡しながらみんな礼。こうして一度もケンカが起きずに、無事儀式が終了。

人間は、様子を察する能力がある。「オドモテレビ」という番組で、面白いパントマイムがあった。フラフープをくぐると体の動きが止まってしまう、という様子を芸人が見せた。すると、年かさのお姉ちゃんは、説明されてもいないのにその様子を見て、自分がフラフープをくぐらされた時、止まって見せた。

フラフープを持ち上げると、お姉ちゃんも動き出した。さあ、今度は5歳くらいの女の子にフラフープをくぐらせようとしたら、その子は「くぐったら動けなくなっちゃう!」と思ったらしくて、舞台の外に逃げ出してしまった。何の説明も受けなくても、状況から察したのだろう。

叔孫通は、人間のこうした「察する」能力をうまく利用したのだろう。儒教では儀式、儀礼をとても大切にする。儀式、儀礼は、「この場ではこうふるまうものですよ」というのを、特に説明しなくても多くの人に察することができるように伝える技術だと言える。

厳かな雰囲気を醸し、厳かに儀式の開始を宣言したり、やはり厳かな音楽を流すことで、儀式に参加している人たちに「いま、自分が何を求められているか」を察せさせる。それが儒教の重んじた「礼」の力だと言える。いわば、礼とは、集団統御技術だと言ってよいだろう。

叔孫通は見事、「礼」の力により、宮殿でケンカを撲滅し、滞りなく業務を勧められるようにした。劉邦はこの見事な結果を喜び、叔孫通に多大な褒美を約束した。叔孫通はこの褒美を、自分に付き従ってきた弟子たちに気前良く分配したという。ここから儒教は復活の糸口を見出した。

残念ながら、叔孫通以外の儒者は、現実離れしたリクツばかりの人間だった面があるように思う。だから戦乱の世を生き残ることができなかった。しかし叔孫通は、儒教が持つ力とは何かを正確に把握し、それを発揮できる時代が来るまでは欲張ってはならないことを弁えていた。

やがて天下がおさまった時、その時こそ、儒教が必要になる。儒教が開発(再発見)した技術である「礼」ならば、多くの人々に秩序を与えることができる。しかも叔孫通は、それを具体的に実施するにはどうしたらよいかまで、見通しを持っていた。大した人物だと思う。

私は正直、儒教の評価を長らくできずにいた。孔子の言葉集である「論語」を読んでも、「孟子」を読んでも、あるいは朱熹「近思録」を読んでも、なぜ儒教が中国の歴史を通じて重んじられてきたのか、はっきりとつかむことができずにいた。もちろん、どの本にもなるほど、ということが書かれている。

しかし、なぜ儒教がこれほどまで中国の人々の心をつかんだのか、そればかりか日本や朝鮮半島の人々にまで影響を与え続けたのか、という点を、今一つつかみかねていた。けれど司馬遷「史記」で叔孫通の話を知った時、ようやく腑に落ちた!という感覚を持つことができた。

「礼」とは、人間に「察する」能力があることを利用して、いま、自分はどうふるまうべきかを察せさせ、それによって、細かく指示を出さなくても大人数を整然と動かすことができる「集団制御術」なのだ、と考えると、その有効性を「発見」した儒教のすごさがわかる気がした。

もちろん、儒教はそれだけの教えではない。しかし、儒教が「礼」という集団制御技術を備えていたことが、いったん滅びかけた危機を乗り越えることを可能にしたのだと思う。そしてこうした力を、叔孫通がわきまえていたことが大きかったように思われる。

平和を維持するためには、礼という集団制御技術が必要になる、ということを、叔孫通は知り尽くしていたのだろう。だからそれを発揮できる好機が来るまで、じっと我慢することができたのだろう。叔孫通のおかげで儒教は生き残り、のちの繁栄を約束することになったのだと思う。

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