まずは五感で観察、理論は後

もう10年近く前になるけれど、「すいえんさー」というNHK教育の番組が面白くて。特に衝撃的だったのは、大学対決。私が初めて大学対決を見たのは、京都大学との対決だった。A4の紙で作った物体の滞空時間を競うという競技。京大の学生は博学さと理論知を発揮して、様々な形の物体を作った。かたや。

アイドルグループのすイエんサーガールは、中学高校生の女の子たち。飛行体の知識も理論もなく、流体力学ももちろん知らなかった。理論からいけない彼女たちは、ともかく紙を色々折っては、落としてみた。すると意外なことに、無加工のA4の紙が一番滞空時間が長くなることに気がついた。

ただし無加工の紙は、ものすごく早く落ちることもあった。彼女らは、滞空時間が長い時と短い時の違いを観察した。滞空時間が長い時は横にシーソーのように揺れて徐々に落ちるのだけれど、早く落ちるときは揺れ過ぎて紙が縦になり、一気にまっすぐ落下するのが原因であることに気がついた。

そこで彼女らは、紙が縦に落ちる体制にならないようにするために、ほぼ無加工だけど端の方をほんの少しだけ折ったようなもので勝負することにした。他方、京大は。
何やら、植物のタネの形を真似したり、実に複雑なものを作った。落下するとクルクル回ったりして、それなりの楽しいものができた。

勝負の結果。すイエんサーガールの圧勝。京大生の作った飛行体はどれも、比較的速やかに落下した。すイエんサーガールの作った、ほぼ無加工の紙は目論見通り、右に左に横に揺れながら、しかし縦になることがないため、非常に長い滞空時間を誇った。

私は見逃していたのだが、東京大学との対決がその前にあったらしい。対決内容は、紙で作った橋がどれだけの重さに耐えられるか、というもの。
東大生は何とか構造だとか何々理論とか、専門知識をフルに発揮し、理論通りの構造物を紙で作った。

他方、建築理論なんかまったく知らないすイエんサーガール。理論なんか当然知らないから思いつきもせず、紙をともかくいろいろいじっていた。すると一人が、紙をきつく細く丸めると、かなり固い棒になることに気がついた。とりあえずその棒を量産してみることに。

その紙の棒を3本束ねると、はるかに強度が増すことに気がついた。ともかく紙を触り、観察しているうちに気がついたことから改善を進め、彼女らなりの橋を作り上げ、東大生と勝負した。
その結果は。すイエんサーガールの圧勝だった。

すイエんサーガールの大学対決を見ていると、東大生や京大生は「知識」に頼り過ぎていることが負けた原因のように思われた。自分の知っている理論を目の前の紙に当てはめ、紙に理論通りの強度とか性能を発揮するよう求めた。紙がその要求にこたえられるものかどうかを無視して。

他方、すイエんサーガールは知識がなかったため、理論を紙に押し付けるようなことはなかった。知識がない分、紙から「教えてもらう」ことに徹していた。紙を落としてみる、折ってみる、その手触りを観察し、紙からヒントを得ようとしていた。その結果、紙というものを観察から理解することに成功した。

すイエんサーガールの取り組み姿勢は、私が研究者として最も重要視しているもの。目の前の事物、現象をともかくよく観察する。触感、視覚、聴覚、嗅覚といった五感を使ってともかくよく観察し、目の前の事物、現象から「教えてもらう」。それを最重視している。その際、理論を持ってこないようにする。

大学などに進学し、いろいろな理論があることを学んでしまうと、理論を活用することが知的なのだと勘違いしてしまう。目の前の現象が理論と相性が良いのかどうかも十分確かめないまま、理論をあてはめて考えようとする。目の前の事物や現象を観察することを、そのために怠ってしまう。

どこか無意識に、「俺はこんな難しい専門的な理論を知っているぜスゴイだろ」自慢をしたい心理が働いてしまうのだろう。そして目の前の事物、現象よりも、理論の方が高尚で素晴らしいものだと勘違いする心理が、どこかで働いてしまうのだろう。

東大京大ともなると、確かにたくさんの本を読んでいるし、難しい理論を理解している学生も多い。同級生のほとんどが理解しなかったり、知らなかったりすることを、自分は知っており、理解までしている、という誇らしい経験が、知らず知らず、理論を金科玉条のように考えてしまう心理を生むらしい。

他方、すイエんサーガールは。予備知識がない、ある意味、無知であるところから物事の現象をつきとめる訓練を普段の番組でしているためか、ともかく目の前の事物、現象をよく観察し、そこから仮説を立てるというクセがついていた。理論という色眼鏡で観察する目を曇らせることはなかった。

当初、東大京大に勝てたのはまぐれだと思われている節があったが、そのほかの大学からの挑戦を受けても連戦連勝、あるいは負けてもかなりいい線にいくすイエんサーガールの活躍を見て、逆に有名大学の学生たちが変わってきた。目の前の事物や現象を理論に従わせようとしなくなってきた。

すイエんサーガールと同様、まずは目の前の事物、現象をしゃぶり尽くすように観察し、そこから生まれる仮説に従って、次の工夫を考える、というスタイルをとるようになった時、大学生はすイエんサーガールに勝てるようになってきた。逆にすイエんサーガールは。

超有名大学にも勝ち続けた傲りが出てきたのか、目の前の事物、現象を観察するのではなく、思い付きでしかない理論をあてはめようとしてうまくいかない、ということを繰り返すようになり、苦戦。勝てないときが増えてきた。

研究する上で大切なこと。それは「手で考える」ことだ、と私はよく表現する。頭で考えていてはダメ。まあ、もちろん考えるのは頭でやっているわけだけれど、手触り、目の前で起きた変化、音、体に伝わる振動、様々な五感を通じて得られる情報をよく観察することがまず大切。考えるのはその後。

目の前の事物に様々なインプットをし、その結果現れる現象を五感で味わい尽くす。現象をしゃぶり尽くす。すると、不思議なもので、無意識が仮説を紡いでくれる。「こうしたほうがいいんじゃない?」その仮説に従って新しい工夫をしてみて、また五感で観察。これを繰り返す。

私は、科学の理論というのは、研究の初期段階では、目の前の事物や現象を観察する際の「目のつけどころ」を増やすためにだけ役に立つ、と考えている。自分一人では気づかない観察箇所を教えてもらうために理論は知っておくと得だが、理論を信じすぎて観察の目が曇るなら本末転倒。

科学では、まず「観察」が最重要。理論が観察の邪魔をするようなら、その理論はいったん忘れた方がよい。観察する際の「目のつけどころ」を教えてもらうものとして理論を利用するなら構わないが、あくまでそれは目のつけどころの一つしか示してくれない、という限界もわきまえる必要がある。

子育てにおいても、この姿勢は重要だと考えている。理論を子どもに当てはめてはいけない。あくまで、子どもを観察し、五感を通じて観察しまくった結果、無意識が紡ぎ出してくれる仮説をまず大事にする。理論との照合は、仮説が浮かび上がってからでよい。それまでは、理論はむしろ邪魔。

私は子育て本を書いたけれど、私の子育て本を金科玉条のようにとらえ、子どもに押し付ける「理論」として使わないでほしい、と考えた。だから、子育て本は目のつけどころを教えてくれるだけだと考えるべきだ、と本でも書いた。答えはあくまで子どもたちを観察する中からしか出てこない。

実は阪神大震災で、先日バズった話の京大生

(https://note.com/shinshinohara/n/n5a2fec1bc22a)

とはまた別に、先行して義援活動していた京大生がいた。しかし彼は残念ながらリクツ先行だった。「救援物資なんかいらない、お金の方がよい、お金を集めてくれ」とばかり主張した。お金の方がよいことは誰にも分かり切っていた。でも。

大阪のある人は、救援物資購入のためにおそらく1千万円は寄付していただろう。しかし現金を渡すという話になったら、百万だって出し渋ったかもしれない。なぜか。お金だと途中でどうなったか分からなくなるからだ。しかし現物購入なら、レシートをお見せし、現場に持っていくしかない。なにしろ大量だし。

現物の救援物資を購入するということなら1千万円でも気持ちよく出す人でも、現金だと迷うのは、そのため。それでもその京大生は「金だ、金の方がよい」とばかり主張し、物資の形で持ってくるボランティアを無能呼ばわりする感じになってきたから、私の親父さんがついにキレた。「お前が集めて来い!」

理論、リクツではその通りでも、現実はたいがい、その通りに進まない。現実をよく観察し、与えられた現実の中で打てる手を模索するしかない。阪神大震災では、そのことを徹底的に教えられた。リクツとの照合は、現実を見極めたあとで行う工程。最初に持ってきちゃダメ。

私は研究をするのでも、子育てをするのでも、あるいは社会の様々な現象を考える上でも、まずは五感を通じた観察を重視している。観察に抜け落ちがないよう、過去の理論を学んで「目のつけどころ」は教わるけれど、観察の際は理論を忘れて五感を研ぎ澄ます。その結果、無意識が仮説を紡ぎ出してくれる。

膨大な観察の結果紡ぎ出された仮説を、過去の理論と対決させる。理論は過去の検証の荒波を乗り越えてきたものだから、信頼性は十分ある。しかししばしば、理論と矛盾して見えることがある。その場合は、過去の理論と新しい仮説の両方を包摂できる道筋がないか、考える。

研究者であっても、物知りすぎると、目の前の現象や仮説を理論で否定する人がいる。せっかく、目の前の現象が新しい事実を告げてくれているのに、それを無視してしまう。もったいない。

和氏の璧(かしのへき)という言葉がある。和氏という人物が、これまでにない素晴らしい宝石(璧)となる原石をみつけ、これを王様に献上した。ところが宝石の専門家が過去の理論に基づいて鑑定したところ、「ただの石ころ」と判定され、怒った王様は和氏の足を逆にへし折った。

それでも諦めきれない和氏は、王様が代替わりした時、もう一度その原石を献上した。ところがまたもや偽物という鑑定結果。もう片方の足もへし折られ、和氏は歩けなくなってしまった。和氏は悲嘆にくれた。

さらに次の代の王が和氏の嘆き悲しむ姿に気がつき、話を聞いた後、試しにその原石を磨かせた。すると、これまでには例のない、素晴らしい宝石(璧)であることが判明した。この璧は、後日「完璧」という成語を生むほど、中国史上最高の宝石としてたたえられることになった。

すべての理論は、過去の現象を説明するのに便利な「仮説」でしかない。観察し損ねていた、気づき損ねていた現象を説明できるとは限らない。もし、目の前の現象が新しいものだった場合、過去の理論で否定するのは、和氏の見つけた原石を否定するような行為。

研究にしろ、子育てにしろ、様々な社会的現象にしろ、まずは虚心坦懐に観察すること。五感で感じ尽くすこと。それによって無意識が紡ぐ仮説を待つこと。理論との照合はその後に行うこと。過去の理論も仮説でしかないから、変に持ち上げ過ぎず、さりとて否定しすぎず、検証すること。

こうした現場主義の考え方を、阪神大震災で学んだように思う。そしてこの姿勢は、研究で新しい発見を行う上で役に立ったし、学生やスタッフを指導する際の姿勢にも役立ったし、子育てにも役立っている。まずは観察から。

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