見出し画像

片方を切り捨てることは智慧ではないのではないか?

自分は老苦ということについてブッダの考えを捉え違えていたのではないかと思う事があった。その事について文章に留めておきたい。お釈迦さまは老・病・死の苦に悩んで出家したと言われている。しかし、老苦について、若き日の悩みを回想した文章に以下のようにある。いささか長いが引用する。

愚かな凡夫(ぼんぶ)は、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。(アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)、III,38、中村元訳)

ここで、注目したいのは、釈尊は、「老は自分にふさわしくないと思って嫌悪する」ことを「愚かだ」と言っている。つまり、「老いていくという事はなんて嫌な事なんだろう。ああはなりたくない」という認識のことを「それは正しい見方ではなかった」と言っていることである。

私たちは「ああはなりたくない」という形で、若い状態を良しとして、老いた状態を悪しとして、自分はそうは成りたくないと老を嫌っていく。釈尊は、その事自体が愚かだと言っている。「他人にはあり得ることあが、私はそうなってはいけない」という形で老を嫌っていくことは、本当に正しい見方ではないのだと言っているように思う。つまり、仏陀の智慧というものは老を他者の事、あるいは切り捨てていくものとしては見ていないという事ではないだろうか。釈尊は老を自分の問題として見た。そして、それは「ああはなりたくないものだ」という形で切り捨てられるものではないと見たのだ。

ところが、わたしたちは、老人を見ると、「ああはなりたくない」という形で嫌い、そうならないように努力する。そういう知恵しかない。

仏陀の捉えている老というのは、私達の言う老の苦しみとはいささか違うように思う。

私たちは、いつも、良くない状態、上手くなっていない状態をダメだとして切り捨てていく。そうあってはいけない、自分にふさわしくないとして、そうならないように努力していく。しかし、そういう思考方法というのは、必ず、当てはまらないものをつくっていく。上手くいっていない人を切り捨てる、良くない状況の人を切り捨てていくことになる。それがひいては、「上手く行かない自分なんて消してしまえばいい」という形になる。仏教を学んだってそうだろう。仏教が分かった状態や仏を信じることができた状態を良しとして、仏教が分からない、信じることができないことを良くないこととして見る。そうすると、信じられない人を排斥する。信じられない自分を排斥するという事になる。

これでは、釈尊が目覚めたあり方とは違うのではないか。釈尊は、他者を自己と見た。自己を他者と見た。老を自己と見た。病や死を自己と見た。それらの状態を善し悪しと規定すること自体を越えたのである。



以下は、私の思い付きであり、これから調べたいのだが(間違いなくもう誰か言っているはず。)

注目したいのは、釈尊は出家する以前にすでに、「老を他人事として見る、つまり、自分にはふさわしくないとすることを愚かだ」と考察しているという事実である。つまり、釈尊が出家する以前に、すでに、老を他人事として見ないとう智慧が働いていたという事であろう。

つまり、私たちは、ある状態を悟りと規定して、ある時点から悟りの智慧が働き始めると考えるが、そうではなくて、真実を見る智慧の働き自体はどこにでもあるのではないだろうか?真実を見る眼は私たちにもきざしている。ただ、それがいつもいつも我々の場合は眼が曇っていくのではないか。


じゃあ悟りとはなにかということにもなってくるのだが、もう少しちゃんと仏教を勉強したい。

(終)


【註釈】


アングラッタ・ニカーヤ 

わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった、--愚かな凡夫ぼんぶは、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。
 愚かな凡夫は自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた病むものであって、病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、健康時における健康の意気(健康の驕り)はまったく消え失せてしまった。
 愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、生存時における生存の意気(生きているという驕り)はまったく消え失せてしまった。(アングッタラ・ニカーヤ、III,38、中村元訳)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?