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あらゆる命が大切と言った。

「あらゆる命が大事」だといいながら、なぜ踏みにじられている命があることに怒りの声をあげないのか。戦争をやめろ・命を奪うなと声をあげないのか。生命を傷つけるような原子力発電に反対の声をあげないのか。こうしたことが、私も含む僧侶や仏教者に問われていると思う。

最近、「お坊さんはSNSで発信した方がいい、メディアへの露出を増やした方がいい」と言う僧侶の主張を見たのだけれど、本当か?と思った。お坊さんがテレビやSNSで活動することが一概に悪いとは言えないし、そういう活動を止めた方がいいとは思わない。しかし、お坊さんがバラエティー番組などに露出しているのを見ると何か違和感を感じる。その違和感のことについて考えてみた。テレビと言っても、「こころの時代」等のドキュメンタリー番組に僧侶が出ている事には違和感を感じない。ただ、バラエティー番組での露出等に何とも言えない違和感を感じるのだ。それはなぜなのか?

多分こういうことが一つあると思う。私も、以前は面白おかしく仏教の事をSNSで発信することを無条件にいい事と考えていた。いい事をしているつもりだった。今僧侶の思いの中には、衰退するお寺の生き残りをかけるために、仏教の事を若い人にも親しみやすいように敷居を下げて発信しなければということがあると思う。僧侶が”仏教の生き残りをかける”という名目のもとに、より苦しい立場に置かれている人のこと、差別されている人のことを差し置いて、僧侶自身が自分達自身を”困っている者”の立場に置き、無自覚にもその地位に開き直り、居すわってしまっているのではないか。つまり、社会の問題に無関心・困難にある人達のことを差し置いておいて自分達の広報活動をすることを優先してしまっていることに「盛り下がっているお寺の世界を活性化する」という名目のエクスキューズを(自分で)与えてしまっているのではないかと思う。

バラエティー番組に出る事やSNSで面白おかしい発信をすることは、「良いことをしている」形をとっているので、仏教界が内側に抱えている性差別の問題・ジェンダー不平等などの矛盾や、社会問題に無関心であることに一定の理由、言い訳を与えてしまっているのだと思う。

本来僧侶は、社会でより弱い立場・苦しい立場に立たされている人たちと共に教えを聞きながら歩むことが大切だと思うが、そうしたことに目が向かず、教えを”とにかく”広めること、お寺の世界が生き残りをかけるサバイバルをすることに集中する形になってしまっている。しかし、その姿は実は、「本当に苦難にある人のことなど視野に入っていないのだな」と多くの人に感じられるのではないか?

お坊さんが自分達のこと、お寺のことを盛り上げることに”ばかり”集中する姿が見えてしまうので、それを見る人はそうした僧侶の姿が何か本質から外れているように思えるのではないか。おそらくこうした構造により、僧侶のバラエティー番組への出演や、SNSで面白おかしい発信ばかりしている姿に違和感を感じるのだと思う。

いい事をしているつもりで、どんどん、社会の問題から無関心になっていないかと私自身が問われていると思う。SNSより、もっと大切なことがあるのではないか?

本当に命の事を考えたことがないのに、本当に深く教えについて考えたことがないのに、伝道師のように分かったつもりで説く自分の姿が見えて愕然とする。これこそが仏教を傷つける事だったんだ。「仏教をダメにするのは内側からである」という意味の言葉がお経(大般涅槃経)にもあるが、こういうことだったのだと…。

今年は私自身が、もっと社会の問題に目を向けて行きたいと考えている。今年は少しネットから離れて、実際に人に会って、色々な人と関わって行けたら、一緒に仏教を聞いていけたらと思う。

(終)




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(追記)

これは、誰か特定の人を批判しているのではなく、自己批判である。SNS等を駆使して活動するときには、必ず自分の名利欲、承認欲求が入り込む。そうすれば、本来大切にしているものを、大切にするつもりで利用することになる。大切にしているという形で貶めることがある。人間は厳粛な教えを「おもちゃ」のように扱うことがある。私はそういう事をやってしまう。そういう事を自分で感じて恐ろしくなった。そのことを一旦まとめておくために記しておく。

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