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内なる権威主義

昨日、哲学者の千葉雅也さんの新刊『ツイッター哲学: 別のしかたで』を読んだ。千葉さんのツイッターの発言をまとめた本である。


いくつも響く言葉があった。何かこの本全体を通して一つのことが分かったとか学べたというよりも、折に触れて思い出されるであろう印象深い言葉が沢山あった。

一つだけ今の自分に特に刺さった言葉を挙げると

「徳」の修練

どんなクラスタに軸足を置くにしても、重要なのは他とのハイブリッド化であり、それをうまく言語化するテクニックである。そして特定クラスタにありがちなルサンチマンから解放されていること、これは必須であって、一種の「徳」の修練である。


あるクラスタにいると、ついつい「その中でしか通用しないような言葉を使ってしまう」という事があると最近感じていた。うっすらと感じていただけだったのが、この千葉さんの言葉が私の違和感の正体は何かを教えてくれた気がする。多分そこには仲間だけで閉じていくという問題と、権威に寄りすがり特権を得ようとする意識があったのだと思う。


一昨日まで、1泊2日のお寺の聞法会(もんぽうかい。仏教のお話を聞く会)に行っていた。この回は非常にまじめな会で、社会で働きながら仏教(浄土真宗)の教えを聞いている20代~50代位の人たちが、お寺に集まって、講師(浄土真宗の僧侶)の話を聞くという会だ。

「人間とは何か?」とか「なぜ教えを聞くのか?」等という問題に真剣に耳を傾けるのだ。

現代にこういう真面目な仏教の会が成立するのかと思うほど、貴重な会だと思っている。で、私は別にその会の会員というわけではないのだけれど、参加させてもらって、一緒に先生の話を聞いている。

ただ、そういう真面目でかつ外に開かれた会にも関わらず、やはりそこには、閉じた仲間意識というものがある。私の中にもある。

分かった者同士だけでうなづきあい、つながり合うような感覚である。

「教えを聞けて良かった良かった」と言い合うような仲間意識である。

講師の先生はその事自体を問題にしていた。しかし、これはあらゆる集団において逃れ難いものである。なぜなら、人間の本性として「つながり合いたい」、「分かり合いたい」という思いがあるからだろう。

しかし、またその素朴な人間の「つながり合いたい」という思いが、排除を生む。分からない人を排除する。分からない人が阻害され、孤独になっていく。そういう場を、仏教を喜んでいる人が作っていくのだ。

そして、僕もまたそういう環境を作り出している者なのだと知らされた。



少し話がずれるのだが、仏教を学び始めて、お坊さんの学校に通い出した時こんなことがあった。

統計を取ったわけではないが、感覚としてお坊さんの学校に行く人の95%はお寺出身、お寺で生まれた子供である。そして5%くらいが、お寺生まれではない人であり、自分もお寺生まれではない。そうすると、話題の中に、必ず、そのお寺業界の中でしか通用しない話が出てくる。例えば「〇〇先生はいい先生だった」「うちのお父さんんと〇〇先生は知り合いである」のように「○○先生」について盛り上がるのである。このような話には、〇〇先生を知らない人は入っていけない。

これはお寺業界以外でも、どの世界にもあることだとは思う。

仏教学生の頃、何となくそこに入っていけない事が悲しかった。また、これが会社や普通の学校の話ではなくて、”お坊さんを目指しているA時間が費やされるのが嫌だった。

ところが、それから10年ほどたって、自分もどっぷりお寺の世界に入って生きている。そして、一昨日、お寺の研修会で、尊敬するA先生にこう聞かれた。


A先生「近藤さんあなたは、聴聞して何年目になるのですか?」

私「はい、今年で10年になります。B先生に連れて行かれて教えを聞き始めました。A先生の事も、B先生に教えてもらいました」

A先生「・・・そうですか」


何となく、A先生が不愉快そうだったのを感じた。いや私がそう感じただけかもしれない。

ただ、このとき、自分でも何だか嫌~な感じがした…。それが何だったのかと今考えると、自分が10年前にされて嫌な会話をしていたのだ。

A先生とB先生は知り合いである。だから、僕は、それを知って欲しいとA先生に対してB先生の話題をだした。しかしその場には、B先生の事を知らない人もいた。そうするとB先生の事を知らない人はこの話題には入れない。でも僕はA先生に近づこうとB先生の話題を振った。B先生の権威性を使おうとしたのだ。無意識のうちに。

これは、理解されたい・注目されたいという自分のルサンチマンだろう。

そこで、先ほどの千葉雅也さんの言葉の戻る。

どんなクラスタに軸足を置くにしても、重要なのは他とのハイブリッド化であり、それをうまく言語化するテクニックである。そして特定クラスタにありがちなルサンチマンから解放されていること、これは必須であって、一種の「徳」の修練である。(『ツイッター哲学: 別のしかたで』


あえて、一定のクラスタでしか通じない言葉から離れる。他の人に開かれる言葉を使おうとする。開かれた話題を展開しようとすることこそが、徳なのではないか。権威的な言葉を使おうとしたり、権威を借りようとすることから逃げる。踏みとどまる。クラスタ外の人にアクセスできる言葉で語ろうとする。ハイブリッドな方法を使おうと試みる。それが徳を積む修練になる。

別に、そういう話題をしたらダメなんてルールはない。でも、どういうあり方をしてもいいからこそ、何かそこに踏みとどまりたい。仲間内で固まることばっかりしてきた世界だから、もうそういう仲間内で固まる社会は作らなくていい。

自分のそういう踏みとどまろうとする態度が、開かれた世界をつくっていくと考えてみたい。

それにしても、自分が嫌っていたことを平気でやっているのだから、私の迷いは本当に深いと思う。迷っている事すら分かっていないし、迷いから出たいとも思っていないという形の迷いなのだと思う。

(終)



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