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自分の精神分析①「なぜ自分には愛がないのか?」

※この話はフィクションだと思って読んで下さい。自分の心の探索としての創作です。


「よしおの陶芸は愛がないなぁ~」大学生の頃、結構本格的な陶芸サークルに入っていた。陶芸をしていたとき言われ続けていたのが「作品に愛がない」ということだった。自分自身もわかっていた。なぜそうなったのか?
なぜ自分はそうなったのか?を分析していきたいと思う。

たしかに、周りの人の陶芸作品を見ると、愛があるように思った。しかし、自分の陶芸には愛がないというのは自分自身でも看取する事ができた。さて、なぜいったいそのようなことになったのか?

これを考察することが、自分にかけているもの、自分の固有の生きづらさを解明する事につながると思うのだ。(各自に各自固有の生きづらさが存在すると考える)

その前の手続きとして、そもそも作品に愛があるとはどういうことなのか?なぜ愛がある作品とない作品があるのか?そのように感じるのかということを検討する必要があるのだが、今回はそれをはしょって、自分の原風景から考えてみたい。


なぜ「僕の作品には愛がないのか」?
自分にとっての根本問題は何か?実はこのこと自体が問題である。このことをちゃんと見つめていないから自分はいつまでたっても、仏教がわからないのではないか?

それをちゃんと見つめることなく、聞いている。だから向き合えないまま仏教を扱っているから、分からない。どこか、他人事のようで、自分の問題にならない。

まず私の問題意識の根っこに何があるのか?なぜ仏教や宗教を追及するようになったのかその根源にある心理をみつめてみた。

その根底にあるのは、「なぜこんな不条理なことが起こるのか」という子供時代の問いである。子供時代、自分の家庭では、ある不条理なことが起こっていたが、大人たちはそれを放置し続けた。無力なる子供達にそのしわ寄せが行った。当時は、訳が分からなかった。

しかも、そのこと自体を純粋に恨むことができない程度には経済的に恵まれていたので、変に自己を攻める形になっていた。実際は、その問題は、子供には罪はなく、完全に大人が責任を持つべき問題であったと今はわかっている。しかし、何度も「あなたたちのため」ということを言われてきたので分からなくなっていた。

もう一つは「ロールモデル」がいなかったということも大きな問題だ。根源的にロールモデルがなく、ロールモデルへの飢えのようなものがあったと考えられる。

今一つは、人間における孤独の問題である。徹底して孤独を感じていた。
さらに、信頼していた人と死に別れるということがあったため、その孤独はさらに深まった。

何か楽しさ・快楽・娯楽ではごまかせないようなむなしさが澱のように自分の心にたまっていったのだろう。

大人にそうした寂しさを訴えても、ごまかされるばかりであった。自分は正面からそうした家族の抱える異常さや不条理と向き合ってもらいたかった。向き合ってもらえたならば、たとえ問題は解決しなくても、孤独を孤独として抱えることができたと思う。それは孤独を知るもの同士が誠実に生きることを通して、お互いに与えあう力のようなものになると思う。その誠実さを通して人間は、問題を抱えながら生きる力のようなものを身につけるのではないか。問題が無くなる・無くならないこと自体が本当の問題ではない。誠実に問題と向き合うというその営為自体に意味があるのだと思う。ところが今考えると、大人も、私の家庭にあった問題から逃避を繰り返していた。そうすると、子供は逃避できないので、その大人が逃避する雰囲気を標準として自分の中に身につけていくことになるのではないか。

そう考えると私が欲していたものは「誠実さ」である。誠実に向き合う、人の痛みや苦しみ悲しみに向き合うという態度であった。それをいつも欲していた。だけど得られなかった。
いつも逃げられ、いつも向き合ってもらえなかった。(多分)

「誠実さ」とは別の形のものが「愛」を装ってインスタントに提案されそれを受け入れた。

決定的な場面での「ごまかし」「はぐらかし」があった。
ごまかし、はぐらかしは、人生において必要なことであり、むしろ親しい間柄だからこそ必要なことでもあるのだと思う。
しかし、ある決定的な場面では「ごまかし」や「はぐらかし」をしてはいけない。いつもそういう態度をされれば、真剣に向き合ってもらえないのだという形で、真剣に向き合わない態度そのものが、デフォルトの思考形態になってしまう。

こうなると、その子供は親密さをさけること、真剣に向き合わないことを愛のある態度として学習していくのではないか。
私は皮肉なことに、誠実さを求めながら、いつも誠実に向き合うことを避けてきた。それは、誠実に向き合われなかった自分が、あらゆるものや、あらゆる他者に逆襲しているのではないか?
誠実に向き合わないということを通して、自分がされてきたことに深いところで無意識でやり返しているのだ。そういう形で自己を保ってきたのではないか?しかし、それは実は一つも自分を大事にすることになっていないのであろう。

私がするべきことは、私が本当にしてほしかった態度や誠実さで自己やものごと、他者に向き合おうとすることだ。これからの子供たちにそのように向き合うことだ。

しかし、どのように、向き合ったらいいのかわからなくなっている。
このことに誰かカウンセリングのプロ等の力を借りながら、向き合っていかなければならないだろう。自分にとっては仏教も何か自分自身を回復するために必要な力なのかもしれない。


書いていて、どんどん最初の、「愛がない」という話からずれて言ってしまった。「愛がない」と言われる理由。もちろん、色々な理由があるのだが、一つは、自分がそのものと向き合わないという思考形態しかしていない事。それを改めようとしてこなかったことがあると思うのだ。もちろん、今更、自分の生育環境や、親を責めるつもりは毛頭ない。彼等もそれを選ばざるを得なかったような理由があるのだと今は分る。しかし、そうしたあり方を繰り返さないための努力が自分には必要だ。

(終)

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