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人生相談によく寄せられる質問

4月から実家の富山に戻ってきて、比較的時間があるのでインターネットでの悩み相談を受けている。そのサイトは回答者として仏教僧侶だけが登録している。悩んでいる人からメールで相談を受けて、その相談に対し何らかの応答をするというサイトだ。

今までおおよそ130人位の方の相談に答えさせてもらった。

そこから見えてきたことがある。

その事について先日書いたメモを以下に示す


1 相談の多くが「他人から好かれない、愛されない人生なんて生きていても仕方ない」といか「人と比較して自分は何もない、欠陥品だ」という相談です。
2 ずーっと、私はダメだと考えて苦しんでいる人がいて。でもそもそも他人から愛されようという事はコントロールできないから、そう考えている限り苦しむだけだ…
3  と思うのですが、やはり、ほとんど褒められたりしたことなかった人がいるんだなと思う一方で、過剰に他者の評価を気にして苦しんでいる人もいるのです。
4  だからこの「他人から好かれる」を軸にして生きる。「比較して、自分をダメだと思う」というところから、どうしたら解放されるかなというか、なんか違う軸をもつというか、そういう事ってどうしたら可能なのかな?っていうことを考えて行って共有していかないといけないなと思いました。
5  これは僕自身がそうで、最近マンガを描き始めて、毎日一本漫画を描いているんですが、人からの評価を気にして、評価されたいマン(※1)にここ数日なっていました。
6  で、カッコいいとおもう漫画家の人って他者の漫画を評価していて、そうか、自分は評価されたいマンだったんだと思いました。
7  どうして自分は評価されたいマンだったのか?と考えてみると、これは色々な原因がありそうで、それを分析していくのも、面白そうだと感じています。

(※1)評価されたいマンというのは、デザイナーの山下陽光さんが、「みんな評価されたいマンになっているから、評価したいマンになったほうがいい」とある所で言っていて、そこからきた言葉です。


実感として、相談の90%くらいが、他者と自分を比較して、その結果自分に「価値がない」「意味がない」という事で苦しんでいるという内容だと感じる。人と比較し、他者の様にできない自分をダメという所に集約される質問が多いのだ。

人ってこんなにも比較によって苦しむんだという事が見えてきた。悩みのほとんどが比較。その度に自分は「人は勝つために生まれてきたのではない、負けて一生しょぼくれて生きるために生まれてきたのでもない。勝とうが負けようが生きる事を願われているのでは?」「勝ち負けのために生まれてきたのではない」という事を伝えているのだが、何だか、そういう事は砂漠にじょうろで水をやるように、無力にも感じている。


でも確かに僕自身もそうだ、人と比較して自分の有用性、ある程度何かできるという力を感じられないと自分なんていても仕方ないと思ってしまう。

中学以降ずっとそんな状態だった。そして今もそういう気持ちがある。

でも、よく考えると”意味”によって自分が生きて良い・生きちゃダメを決めるってすごい偏狭で傲慢な見方だよねって思う。(※2)

仏教はそういう風に命を見ない。命は厳粛で人間が意味付け・価値づけ出来るものではないのだ。

だから、仏教に触れる事で、自分の考え、社会のモノサシ、生産性等の価値観が全てではないという視座が与えられる。自分や社会のモノサシ自体を相対化することができると思っている。

簡単に解決する方法はないのだと思うのだけど、現代のこの「人と比較することによる苦しみ」というものを何とかできないものだろうかと思っている。

そして、自分はそういう人達に向かって漫画などで仏教の話を伝えたいし、一緒に考えていきたいと思っている。


(終)


〈註釈〉

(※2 そもそも僕らは、なぜ僕らはいのちの意味を決められるとか、意味ないなら消しても良いって思うようになったのだろう…?純粋に不思議な問いだ。いつの間にか思っている。子供の時はそんなこと思っていなかったはずなのに。)

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