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映画『バビ・ヤール』を観た感想

先日、京都シネマで現在公開中のドキュメンタリー映画『バビ・ヤール』を観た。心に残る内容だったので、感想を残しておきたい。

『バビ・ヤール』はドキュメンタリー作品であり、監督はセルゲイ・ロズニツァである。ベラルシ生まれ,ウクライナ育ちの映画監督。現代ロシア社会を鋭く諷刺したドキュメンタリー作品で知られている。


セルゲイ・ロズニツァ監督

バビ・ヤールはウクライナで第二次世界大戦の時に起こったユダヤ人の大量虐殺事件を扱ったドキュメンタリーだ。ナレーションなどはなく、全編淡々と、当時の映像を集めたものが流される。しかしそこに、音声を追加されており、まるで戦場に投げ出されたような臨場感がある。ナレーションが無いからこそ、当時そこで起きていた現実に入り込むことができるように思う。ただ、ナレーションが無い分、一体どういう事件だったのか、事件の背景にどのようなことがあったのかということは分かりにくい。パンフレットを買ったのだが、パンフレットを読むことで、この映画への理解が非常に深まった。(普段あまり映画のパンフレットを買うことはないのだが、本作に関しては、買って良かったと思った。)

以下、パンフレットに記載される、物語の概要を示したい。

独ソ不可侵条約を破棄して1941年6月22日にバルロッサ作戦でソ連を侵攻したナチスドイツ軍は6月30日にウクライナ西部リヴォフ(レンベルク)を占領する。市民はスターリンの肖像画を破りナチスドイツの占領を歓迎した。ドイツ軍の東方拡大に備えキエフ市民は街中に土嚢を積み始める。ナチスドイツはガリツィアを占領下ポーランド総督府に編入し、傀儡政権をつくり支配地域を拡大しながら侵攻を続け、9月19日、ついにキエフを占領する。ソ連軍によって逮捕・勾留されていた囚人は恩赦によって解放され、ソ連統治下で困窮していたキエフ市民はナチスドイツを受け入れはじめた。そんな中、9月24日にキエフで大規模な爆発事故が起きた。これはNKVD(ソ連秘密警察)がキエフから撤退する直前に仕掛けた爆弾を遠隔操作で爆破したのだが、多くの市民を巻き込んだこのテロの疑いの目はユダヤ人に向けられた。翌日、当局はキエフに住む全てのユダヤ人に出頭命令を出した 1941年9月29日から30日にかけて、アインザッツグルッペン(移動殺人部隊)Cのゾンダーコマンド4aは、警察南連隊とウクライナ補助警察の支援を受け、地元住民の抵抗もなく、キエフ北西部のバビ・ヤール警告でキエフに住む33771名のユダヤ人を射殺した。女も子供も老人も皆身ぐるみを剥がされ無慈悲に殺された。本作品はホロコーストにおいて一件で最も多くの犠牲者を出した人類史上最悪の事件とその衝撃の結末を全編アーカイブ映像で描く。

(セルゲイ・ロズニツァ パンフレット『バビ・ヤール』)

以上の説明でおおよそ、この映画の舞台が分かるかと思う。
ウクライナはソビエト・ロシアの構成国であったが、第二次世界大戦でナチスドイツによって占領された。その時、多くのウクライナ人はそれを歓迎した。映画では、街の中にヒトラーのポスターが貼られ、人々は喜んでいた。

しかしその時、何とかナチスドイツに一泡吹かせようとするソ連秘密警察がキエフに爆弾を仕掛け、ナチスドイツに打撃を与える。しかし、それにユダヤ人が関与していたという噂がナチスドイツによって作られる。
「すべてのユダヤ人は出頭するように」とナチスは命じるのである。そして出頭したユダヤ人たちは、窪地に丸裸にして並べさせられ、銃殺されて行った。その人数が33771名である。信じられない数である。

バビ・ヤールに残されたユダヤ人たちの衣服や持ち物


監督のディレクターズ・ノートには以下のような文章がある。

ドイツによる占領からバビヤールの悲劇を描く事が重要でした。突然の政権交代があり、短期的な混乱や無法状態た生じ、その時人間の本章が剝き出しになり事件が起きたのです。あらゆる理由から私は1941年9月のキエフ市民は、ユダヤ人が南方へ移送されるのではなく、殺害されることを分かっていたと確信しています。しかしだれ一人として抗議しようとしなかったのです。最も困難で極限な状態に追い込まれた人々を現在の価値観で判断することはできませんが、少なくともこの状況について振り返ることはできます。当時ユダヤ人を家に匿うなどした市民もごくわずかにいたようですが、大多数はユダヤ人を排斥し、ユダヤ人の持ち物の所有権に関心を持ちました。そのことが私は最も恐ろしく思います。彼らは内部人民委員部・NKVDが作成したユダヤ人リストを使い、隣人をドイツ軍に通報しました。そして、大虐殺の後、渓谷まで歩くことができなかった年老いた数名のユダヤ人は隣人によって家から引き摺り出され投石され殺害されました。この凄惨な事件はキエフ市民が主導的に行った行為で、ドイツ軍はいっさい関わっていませんでした。私は自らの目でこの残虐な行為を残されていた記録文章で確認しました。私たちは真実について学ぶ必要があります。歴史を認識することこそ、歴史の抹殺に対する最大の防御であります。旧ソ連の後継者ともいえる国々が、現在置かれているソビエト/ポストソビエトの沼地かあら抜け出す唯一の方法でもあります。

(セルゲイ・ロズニツァ パンフレット『バビ・ヤール』)

私がこの映画を観ていて感じたのは、まず現在ウクライナで起きていることが過去にも起きていたのではないかという事だ。
大国に挟まれるウクライナは、大国の思惑により、何度も占領されたり解放されたりを繰り返してきたのだという基本的なことに改めて思い至った。その中で映像では、そのたびごとに、街のポスターが入れ替わる。

スターリンのポスターが、ヒトラーのポスターに代わり、ヒトラーは解放者として歓迎された。人々はドイツ語を話す為政者を受け入れた…ように見えた。
かくも簡単に人は誰かのことを解放者、我々を救ってくれる英雄と見てしまうのか。そのことにクラクラした。もっとも、監督がすでに言っている通り、「当時の人々の感じていることを現代の私の感覚から断罪することはできない」。しかし、人間の本質というものを知る。今の現状をより良いものに変えると言ってやってくる力のある者に対し、人はその正体を十分に知ることなく、英雄視してしまう。さらに、今度は再び連合国側が、ナチスドイツを滅ぼした時には、今度は再びヒトラーのポスターが剝がされて、街はスターリンやレーニンのポスターで彩られて行く。その時にも人々は喜んでいた。変わっているのは「誰が上に立つか」ということだけなのである。もちろん人々はそのことになすすべもなかったのであろうけれども、反抗するというよりも、その事をまるで劇でも観ているかのように受け入れ歓迎さえしているのである。その事が恐ろしかった。いとも簡単に、前のリーダーを悪役にして、次の善きものと言って近づいてくる為政者を受け入れてしまう。この群集心理とも言える人々の姿が恐ろしかった。そして、それは今の私たちの在り方と何一つ変わらないのではないか?

つまりこれは、たまたま舞台がウクライナだっただけで、どこの国でも同じ事が起こるのではないか?

そして、最も恐ろしかったのは、ナチスが爆破事件にユダヤ人が関わったと噂が立ったとき、ユダヤ人に出頭を命じ大量虐殺をしたときに、市民たちは誰一人として抗議しなかったということである。たいした騒ぎにもならずに、すんなり、33771名のユダヤ人が殺された。ユダヤ人を匿う人は少なかった。そして、多くの人はユダヤ人の持ち物を所有することに関心を持ったのである。
それどころか、渓谷まで歩くことができなかった年老いた数名のユダヤ人は、隣人によって家から引き摺り出され石打ちによって殺されたという。この積極的なナチスへの加担。誰にもやれと命令されていないのに、市民が積極的に虐殺に加担した!
もしかしたら、これは今の日本でも同じことが起きるのではないか。コロナが始まった時、県で最初にコロナになった人の家などにものすごい嫌がらせがされた。ある食堂では○○人は入店を拒否するということが行われた。日本ではこのユダヤ人の虐殺は起きなかったか?いやもっと積極的に市民が協力して一致団結してユダヤ人をなぶり殺しにしたのではないか?
そうならないためには、まさに戦争でない時に、ヘイトスピーチや差別がいけないということに声を上げていないといけない。差別は駄目なんだということを教育しないと、戦争の時にそうした差別が市民の積極的虐殺という形で結実してくるように思う。だから差別はいけないんだ、許されないのだと思った。

そして、さらに考えたのは、この映画がとにかく群衆を写しているということだ。群衆にここまで焦点を当てた映画はあまりないのではないか?この映画には個人としての人間ではなく、群衆が沢山うつる。ナチスを歓迎する群衆。出頭を命じられ、集められるユダヤ人たち。戦争の終わりに、ナチスドイツの将校たちが絞首刑になるのをを見せもののように見て喜ぶ群衆。

戦争になると人間は群衆になってしまうのではないか。そして群衆という意味では、戦争に巻き込まれて行く市民も群衆となり個人性を失っていく。そして私がすごく不思議だったのは、立派でカッコいい制服を着ているナチスの将校たち、ソ連の将校たちも、殺されて行く群衆と同じように、丸裸にされて自己の尊厳を奪われつくされている存在に見えた。
もちろん、殺す側と殺される側を一緒にしてはならない。殺される側はたまったものではない、全く違う。しかし、その存在が個人の意思を失い同じ帽子と制服を着ているという点では全く同じに見えた。殺人を粛々と行い、権力の奴隷になっている死に体に見えた。いや、ナチスの立派な帽子をかぶっている将校たちの群れの方がより、遺体のように見えた。何か魂を失い、権力曰命令されるままの死に体に見えたのである。

戦争の恐ろしさを思う。


ナチスが去った後のバビ・ヤール

本作の最後のシーンは、戦争の終わりに連合国によってナチスの占領からキエフが解放される場面で終わる。それまで街にヒトラーのポスターが貼られていたのがきれいに剥がされ、スターリン・レーニンの肖像画が貼られて行く。またしてもトップの交代である。そしてそれを歓迎する人々。次々に頭だけがすげ変わる。

そして、広場に、ナチスのSSの将校たちが絞首刑になるために集められる。その姿を一目見ようと、恐ろしい数の群衆が取り囲む。

絞首刑の瞬間、人々は歓声を上げる。微笑んでいる人もいる。手を叩いている人もいる。全てが間違っていると思う。
もちろん、ナチスがやったことは許されない事だ。しかし人が死ぬということが見世物になるとすれば、何かが間違っている。
そこに悼むということがあって欲しいと願うが、それがない。カラッと人々は笑っている。もっと、何とも言えない嫌な気持ちを持ってほしかった。そういう表情をして欲しかった。しかし人々は歓声を上げているのだ。私もあそこにいたら、一緒に手を叩いたのではないか?いや間違いなく叩いたと思う。

この悼む心の無さが、カラっと明るいポジティブさが、33771名のユダヤ人を殺したのではないか?

人間に絶望せざるをえない映画である。
しかし、私たちはその絶望を知った上でなおも、自分自身に・人間に絶望しないために学ぶ必要があるのではないか?
この映画を観てどうせ人類は駄目だとなるのは単純すぎるだろう。

無念に殺されて行った人々は、そうしたことは望んでいないはずだ。むしろ、「あの時どうして止めてくれなかったのだ」、「止めろと言ってくれなかったのだ」と私たちは呼びかけられているのではないか?

呻き声は私たちに問いかける声だ。もっともしてはいけないことは、安易に人間とはこういう物だと決めたり、答えを見つけてしまうことだ。考え続け、学び続け、声をあげつづけることが私たちに出来る事ではないのかと考えた。(注意しておきたいのは、この映画はウクライナを舞台にしているが、どこの国でも起こる問題だと私は考えている。むしろ国境を越えて人の本質を描き出している作品であると考えている。)




参考文献
『BABI YAR. CONTEXT 公式ガイドブック』2022年、サニーフィルム刊

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