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他者の期待に応えようとすることの中にある問題

誰かの期待に応じようとして、行動するということは、行動の結果その相手から思ったようなリアクションが無かったら悲しんだり、憤慨したりしてしまうということがあるように思う。だとするなら、それは一見すると美しいようだがその根底に、期待に応えることで「相手をコントロールしたい」そして「期待に応えられるような自分になって、自分の価値を証明したい」という気持ちが動いているのではないだろうか?

そこに、非常に深い高ぶり・高慢さがある事に気づく。人の期待にばっかり応えていると、いつのまにか「ほれ、欲しいのはこれでしょう?」となって高上がりしていくものを私は持っている。例えて言うとお坊さんだから、お坊さんらしいことを言わなければいけないという所にある種のうさん臭さを感じるのだ。今日「お盆」だから、皆の喜ぶようなことを言わないとな、お盆の風物詩見たいなの期待しているだろうから、それに応えられる自分になろうと思った。「お盆らしいマンガでも書いてアップしようかな。」と思った、でもその思想の根底には、皆に受け入れられる自分になっていきたい、という媚びるような心がある。つまりその底には恐怖がある。役に立てるように自分にならなければいけないという怖れ。そしてその心は「俺は役に立つのだ」というおごりにどこかつながっている。その時私は、顔のない他者と恐怖の奴隷になっている。

人の期待に応えようとすると、自分を失っていくような気持ちになる。人が喜んで一見自分も嬉しいようだけど、それは本当に幸せなのだろうか。何か自分の根本的問いを忘れて、人の欲望に投機しているようで怖い。自分の欲望が分からないから他の欲望に依存して自分を立てようとしている。そこにあるのは他に媚びること自体が目的化した得体のしれない感情のみなのではないか。そこに気持ち悪さが宿るように思う。

戦争だって、誰かの役に立つ自分になりたいという所から生まれてきたように思う。それが様々なスケールで、例えば「上官の役に立つ自分になりたい」という思いが戦争を支えてきた。「お国の役に立つ人間になる」という言説は気持ち悪い。しかし、戦時中は皆そこに酔ってきた。「誰かの役に立つ」ことは人を酔わせる力がある。しかしそこに皮肉にも、私達が自分自身を失い、全体主義に走る源泉があるように思う。

人間にとって「生まれてきた意味が分からない」「意味を欠いて生まれてきている」という根本的な謎が、本当に耐えがたいものなのだと思う。人は誰もが逃れることができない根本的な矛盾を抱えている。理由が分からないのに、この世界に投げ出されている。そこから逃れようとして「役に立つ人間になる」という謎の理由を私たちはこしらえるのではないだろうか。そこからまた差別も始まる。本当にやっかいである。誰かの役に立ちたいという素朴な思いー私たちはそれ以外の生き方を知らないーの中に自己を失う原点が内包されているのだから。

自分の問い、自分たった一人の問いに帰ることができないものだろうか。

(終)


[追記]この事を書いて、役に立とうとしている人を糾弾したいのではない。役に立つ人に成りたいという素朴な思いがどこかで差別心に結びついているという根本的な矛盾を考えてみたかった。さらに考えを深める必要がある。なお、「生きる意味が分からない」ということと仏教の課題が対応するように思う。ここもさらに考えてみる必要がある。



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