韓国の茶旅12ヶ月 康津編
文人たちを慰めたお茶の交流
蛙が鳴きつづけた夜が明け、初めて明るい光の中で見た康津は、一面青々とした田んぼが広がっていました。頭輪山大興寺を訪ねたその足でさらに坂道を上って上って、ひたすら上ってめざした目的地は一枝庵です。
「この坂を上りきればきっと一枝庵が見えてくるはず」。何度そう自分を励まして歩き続けたことでしょう。一人で来ていたら、きっと途中であきらめて引き返したことと思います。
一枝庵は、韓国の茶聖として知られる草衣禅師帳意恂(1786~1866)が、40年間参禅(禅を学ぶこと)を積みながら執筆を行なった庵です。庵の周りには茶樹が生え、お茶を沸かすための水をたたえた茶泉がありました。
この庵で草衣禅師が書いた『茶神伝』『東茶頌』は、韓国の『茶経』(中国の陸羽が書いた『茶経』がお茶に関する最古の書)ともいうべき著述です。このなかで草衣禅師は儀式にとらわれず、ただ美しい水と良い茶葉で煎れて飲むという原点ともいうべき喫茶を唱えました。「茶禅一如」(茶道も禅道も神髄は一つ)の精神のままに生きた草衣禅師は、お茶を通じて多くの文人と親交を結びました。
そのなかに特筆すべき二人の偉人がいます。秋史金正喜(1786~1856)と茶山丁若鏞(1762~1836)です。
「秋史体」という書体を生み出し書聖と称された金正喜は、使臣として親が赴いた清国において名高い学者たちと交流してお茶にも親しみました。権力闘争に敗れたがゆえ9年間にもおよぶ済州島での配流生活を送ることになります。日本では流刑というと島流しが連想されますが、大陸では流刑は遠い地方で隠遁させられる意味合いも含んでいます。このとき金正喜にとって精神的な支えの一つとなったものは、草衣禅師の度々の慰問と禅師が作るお茶でした。「静坐処茶半香初 妙用時水流花開」という韓国では大変有名でよく茶室に掛けられる茶詩と、草衣禅師に宛て茶葉を送ってくれるように頼んだ金正喜の手紙が残っています。
かつて草衣禅師が住した大興寺から車に乗ってほど近い場所に、配流された丁若鏞が住んだ茶山草堂があります。丁若鏞は李氏朝鮮後期を代表する実学者であり、水原築城における起重機の発明などさまざまな分野で力量を発揮しました。世の中の改革を志していた丁若鏞は、その才能を愛した後ろ盾ともいうべき第22代国王正祖(在位1776~1800)が逝去すると、農地収穫の公正分配や奴婢制の廃止を訴えた進歩的な考えの持ち主であるということや、振興宗教であるキリスト教信者が身内にいるという理由で不当な弾圧を受けて流刑という憂き目にあいました。
康津に配流され失意の日々を過ごしていた丁若鏞はこの地で萬徳山白蓮寺の恵蔵禅師(1772~1881)に出会い、お茶に安らぎを見出し、雅号を茶山と名乗り、茶山草堂に定住した18年間で500冊におよぶ膨大な著述に専心しました。代表作である『牧民心書』8冊は、官僚が守るべき心得を記したもので現在でも必読書として推奨されているそうです。『茶信契説目』を著し山茶栽培も行なっていた茶山丁若鏞の草堂にも茶樹が生えていました。若い草衣禅師とも親交を結び、茶禅への理解を深めています。茶山草堂には丁若鏞が水を引いて造った泉、お茶を沸かし飲んだ盤石、赦免された時に自らが留まったことの証として岩壁に刻んだ丁の文字が残っています。
韓国茶礼の世界を通じて私が初めて覚えた韓国の偉人の名前も、実は秋史金正喜と茶山丁若鏞の二人でした。韓国を訪れた際に参加した献茶式で、韓国茶の世界に貢献した故人を偲ぶために行なわれていた表演の一幕で、僧侶が流刑を赦免された文人をお茶でねぎらったという故事を再現したお茶の表演はとても印象的でした。
そしてまた、金正喜と丁若鏞の両者には蘇軾の姿が重なります。中国の歴史を代表する宋代の文化人、蘇東坡の名でよく知られる蘇軾(1036~1101)はお茶をこよなく愛すると同時に、道教、儒教、仏教の三教に深く親しみ理想を追うことをやめませんでした。
数多く詠まれた茶詩の中には「欲上蓬莱(仙境に上りたい)」、「羽化上登仙(羽が生えて仙人になる)」などの文字が見られます。
いつかお茶を飲んでふわふわと羽が生えたような境地に達してみたい、と一枝庵にひっそりと寄り添う茶樹を眺めながら思う私でした。
6月に巡った寺巡りの旅では梅雨の季節らしく冷たい梅の伝統茶ばかり飲んでいた記憶があります。ちょうど梅の実のなる季節だからでしょうか。
伝統茶のメニューに梅実茶をよく見かけました。梅の原産国である中国でも梅実茶によく似た飲み物があります。梅湯(酸梅湯とも)という夏の飲み物で、烏梅に水を加えて煮だし、砂糖または蜂蜜、モクセイの花で味付けしたものです。下痢止め、咳止め、食中毒や夏バテの予防や解消に効くとされます。
一枝庵への山登りの後、疲れが残らなかったのは梅実茶のおかげに違いありません。
上の記事は韓国茶の旅中の記事です。
他地域の物語も読んでいただけたら、幸いです🍀
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