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Cultural Appropriation(文化の盗用)について英会話講師と話したこと

こんにちは!エアトラベラーです。

皆さんは「Cultural Appropriation」という言葉を知っていますか?
ボクは恥ずかしながら今日初めてその言葉を耳にしました。

この言葉、日本語では「文化の盗用」と訳されているらしい。なんだか穏やかではないですよね。

ちょっと色々考えさせられたので、今日はこのテーマについて書こうと思います。

🟧 Cultural Appropriationについてどう思いますか?

フリートークの中で、講師から突然、TOEICもひっくり返るような"謎質問"を投げかけられ、ボクは困惑しました。

まず、単語の綴りは浮かぶが「Appropriation」がどういう概念なのかがわからなかった。聞いてみるとと、日本人にとって大変わかりやすい例を上げて教えてくれました。

2019年に、アメリカのタレント、キム・カーダシアンが自身の矯正下着ブランド「KIMONO」(キモノ)という名称を使用して物議を醸したこと、皆さんも覚えているのでは?

問題の「KIMONO」

不快に思った人も多いでしょうね。私もその一人です。なぜかというと、着物は日本人にとってああいうもの(アバウト!)であって、下着じゃねぇぞと思うから。オメェわかってんのか?と。ちゃんと日本のこと、着物のこと学んだうえで言ってんのか?と。そう思ってしまうからでした。

こう思う日本人が少なからずいたので、「KIMONO」は批判に晒されたわけです。そして、この、元々の文化の所有者たる人たちが「誤解されている」「ムカムカする」「侮辱されている」と感じる表現・創作のことを「Cultural Appropriation」というのだそうです。

特に、「支配的な」文化圏…例えば欧米の白人クリエイターなりアーティストが「マイナーな」文化圏…例えばアフリカとかネイティブアメリカンの習慣や伝統的要素を取り入れたスタイルを発表する、なんて時に「Cultural Appropriation」と指摘される可能性が高い。

こういう奴はいかにも物議を醸しそう…

白人がラップやゴスペルを歌う、ドレッドヘアにするなどは黒人の文化を「搾取している」と受け取られ批判の的になる可能性がある。特にそうした作品で大きな収益を得た場合は。金儲けのために、他人様の大事にしている文化をつまみ食いして取り入れてんじゃねぇ!と。そういう話です。

🟧 簡単な話じゃないよね

確かになぁ、日本人でもダボダボの服着て、ジャラジャラ鎖ぶら下げて、キャップを後前にかぶって、グラサンかけてヒップホップかましてる奴にはクチをアングリ開けてしまうよなぁ(薄っぺらい偏見です)。

ん〜、でも待て待て、落ち着こうぜ。と思うボクもいます。

表現の自由は担保されるべきだよな、と。
それに、他の文化にインスパイアされて、それを自分の表現に取り入れるなんてことは人類の歴史で散々繰り返されてきたし、それによってさらに文化やアートが多様化してきたことは事実じゃないですか。

葛飾北斎や歌川広重の浮世絵がモネやセザンヌなどフランスの巨匠に強い影響を与えて名作を生み出した、なんてのは全然批判されないわけで。

fashionpressより

新しいものというのは、ゼロから生まれるのではなく、既存のものと別の既存のものの組み合わせから生まれる、むしろそれしかない。

だとすると、他の文化圏から何某かの要素を引っ張って取り入れること自体は極々自然でありうること。その行為を批判するのはなんか違うんじゃね?と思います。

何でもかんでも、Cultural Appropriationにされちゃったら、人類は創作活動が一切できなくなっちゃうジャン。


🟧 どこからが Cultural Appropriation になるのか?

じゃぁ、矯正下着ブランド「KIMONO」のキム・カーダシアンとクロード・モネの違いはなんなのか?

「理解」「リスペクト」「正しく伝える」
この3点なんじゃないかとボクは考えました。

「理解」

まずは、拝借?しようとしている表現=アウトプットの背景にある歴史、カルチャーと、思想をちゃんと学ぼうぜ。見た目が面白いから、自分の文化圏から見て新鮮で刺激的だからというだけじゃなくて。関心を持って取り入れようと思ったなら、「なぜそのような表現が生まれたのか」まで勉強せいと。

どうしてそんなことまでする必要があるのかというと、誰かの尊厳を傷つける恐れがあるから。ろくに相手を理解することなく、冷やかし半分のウケ狙いで誰かの物真似をしたら、本家は馬鹿にされたとしか思わない。

自分が借用しているものは、少なくとも相手が長い歴史の中で積み上げ築き上げてきたり、簡単には発想し得ない独創性の高い”貴重なもの”なのだと認識することがスタートラインだと考えます。


「リスペクト」

そもそも、人を小馬鹿にした所業ができるのは、相手へのリスペクトがないから。面白いからいいじゃんで済むのは自分だけ。相手の文化をちゃんと理解したら自然とそこには納得感と「尊重しなきゃね」という思いが生まれるもんです。

表現として借用していいかどうか相手の合意を取り付けることまで必要かはわからないけど、少なくとも誰かの大事なものを自分の表現に取り入れ、ソレを発信しようとしていると自覚しないと、大変な失礼をしでかしたり、想像もしなかったしっぺ返しにあいますぜ、ということ。


「正しく伝える」

自分の創作に「誰かの大事なもの」を取り入れて世に出すなら、その輸入した要素については正しく世間に伝える「責任のようなもの」を負うことになる(と思って欲しい)。法的には、著作権とか商標権に当たるかもしれないけど、例えば思想とか習慣のように無形のバックグラウンドも含めて、まるっと伝える努力をして欲しい、ってことです。特に、メジャーな奴がマイナーな奴の要素を取り入れる時はなおさら!

作品の見た目ではそこまで伝わらなくても、聞かれたらちゃんと自分の理解した相手の価値、およびその価値へのリスペクトを伝え、相手の大事にしているものを自分も尊重しているという姿勢を見せてね、と。そうすれば、安易な「盗用」と非難されるリスクは相当小さくなるのではないですかね。むしろ、日の目が当たっていなかったマイナーなものに光を当て素晴らしさを発信してくれてありがとう!ということもあるでしょう。


というように、この3つが作品に備わっているかどうかが、Cultural Appropriationかどうかのボーダーラインなんじゃないだろうか?とボクは考えました。

KIMONOのケースも、実はこの3つがちゃんと満たされていたらブーイングはさして起こらなかったんじゃないかと想像します。

例えば、キムさんが「私は90年代後半に京都を訪れました。そこで生まれて初めて着物というものを目にした瞬間、私の中に電撃が走り抜けました。それほどに私の美意識を強く揺さぶるものだったのです!それをきっかけに着物およびそれが生まれた日本の風土や生活、着物自体の製法について学ぶうち、『用の美』という素晴らしい観念にたどり着き、ぜひ私の矯正下着のコンセプトにもそれを取り入れさせてもらいたいと考えるに至ったのです」とかなんとか言っていたら、日本人はみんな溜飲が下がりますよね。


🟧 生きにくいよなぁ

誰でも簡単に声を上げることができる時代。とはいえ、称賛とバッシングは常に紙一重、背中合わせ。何か言うと、それを批判する人が絶対出てくる。

かつての教師曰く「自由には責任が伴う」。また、ベンおじさん(映画スパイダーマン )曰く「大いなる力には大いなる責任が伴う」。

インターネットやSNSという「自由」と「大いなる力」を手にした市民も、いろんなことに気をつけて生きていかなきゃならんのですな。めんどくせぇなぁ。。

そんなことをつらつらと思う、土曜の昼下がりでした。

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