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コラボ小説「ピンポンマムの約束」11

 本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 今朝の雨を含んだ木々は、陽を浴びて瑞々しく光っている。濃度を増していく若葉は、夏への距離を教えてくれる。日々増していく紫外線量に、病院の中庭を行く女性は日傘や帽子で防御している。

 あたしはベッドに腰かけ、米田先生が録音してくれた怖い話を流す。

 紫藤千秋さんの周囲には、成仏できない2つの魂が彷徨っています。お母さんの魂は、娘が『あたしを生んだせいで母さんは死んだ』と苦しんでいることが心配で成仏できないのです。命がけで産んだ千秋には、思うように生きてほしいと思っているのに……。お祖父さんの魂も、可愛い孫が『あたしのせいでじいちゃんは心臓を悪くして死んだ』と苦しみ、法事にも墓参りにも来てくれないので、気がかりであの世に行けません。近頃では、2つの魂は、千秋さんが『あたしのせいで父さんが会社をクビになるかもしれない』、『ばあちゃんまで、あたしが心配をかけたせいで黄泉の国にいってしまうかもしれない』と怯えていることを心底心配しています。
 しかし、2人とも時が経つにつれ、千秋さんのせいでいつまでも成仏できないことに怒りを募らせていきました。そこで意気投合した2つの魂は、千秋さんをこらしめてやろうと言い出します。まずは、その怒りを伝えるために、千秋さんの写真に写りこんでやろうか、夢枕に立ってやろうかと相談しています。

「ピンポンマムの約束」10より

 何度か聞くうち、恐怖心は最初より低下していった。でも、決して気持ちのいいものではなく、胸が苦しくなり、ぞわぞわ感が旋毛つむじから爪先つまさきまで走り抜けていく。

 あたしは、浅くなった呼吸を意識的に深くする。卓上ミラーを床頭台に立て、鏡のなかの女と向き合う。女の青白い顔をスポンジが叩き、滑り、化粧下地とファンデーションを広げていく。アイブロウが眉をなぞり、濃く、凛々しく変えてくれる。慎重な運びのアイラインペンシルが二重瞼の縁をなぞり、目をくっきりと際立たせる。くすぐったさを堪え、ブラシの毛の動きを頬に感じながら、ほんのりチークを乗せる。
 顔にあたるコスメの感触を味わい、変わっていく女の顔を観察するうち、怯えていたあたしを客観的に見ていると気づく。さっきの忙しない呼吸は、深くゆっくりとした呼吸に変化している。朝食を消化する内臓の音が聞こえ、自分の臓器が機能していることに意識を向けられる。カラスの声、病院のロータリーを行く車のエンジン音、廊下を行くスタッフの足音が耳を通り抜けていく。

「千秋さん、こっち向いて」

「え?」

 振り返ると、海宝さんがスマホをこちらに向け、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「あの、しっ、心霊写真とかになってませんよね……?」

 海宝さんは眉間にさっとしわを寄せて後ずさる。
「嫌だわ、この人影……。夢に出てきそう」

「え?」
 口元を手で覆う海宝さんの怯えきった表情に、あたしまで全身が粟立つ。

「千秋さん、見たい……?」
 海宝さんは声を震わせて尋ねる。

「あ、いいです、いいですから、本当に……」
 首筋から冷水を浴びせられたような恐怖感に襲われ、この場から逃げ出したくなる。

「しっかり見なさい。可愛く撮れてるわよ」
 海宝さんが画面をあたしの前に突き出す。
 写真に写ったあたしは、いつもより色白美人だ。口紅をつけていないのがもったいない。もちろん、人影など写っていない。

 安堵の息を吐いたあたしは、ずっと確認したかったことを口にする。
「海宝さん、死んだ母さんとじいちゃんは、あたしのこと怒ってると思う……?」

「さあね」

「そんなわけないでしょう」と笑い飛ばしてほしかったのに、曖昧な反応をされ、苛立ちで床を蹴ってしまう。

 老眼鏡を外し、タブレットに目を落とす海宝さんは、いつも通り姿勢が良く、凛としている。

 そんな彼女に気後れしながらも、あのカウンセリングの日から、ずっと考えてたどり着いたことを聞いてもらいたいと思った。
「前のカウンセリングで金先生に『認知が歪んでいる』って言われてから、ずっと考えてたんですけど……」

 海宝さんは、一語も聞き漏らさないと言いたげな視線を真っ直ぐに向けてくる。

「悪いのはあたしだけじゃなかったと思うんです……。
 あたしは物心ついてから、ずっと家族が理想とする優等生と現実のあたしの違いに悩んできました。あたしは、あたしなりにですけど、理想の姿に近づこうと頑張ってきたんです。でも、小中高を通して勉強も運動も冴えなくて、暗いとか、つまんないとか、バカとかグズとか言われて、仲間外れにされたり、虐められてきました。
 だけど、考えてみれば、あたしが不登校になったのは、もちろん虐められたあたしも悪かったけど、虐めた奴らだって悪いです。それから、見て見ぬふりをしたり、加害者を止めさせてくれなかったり、十分な対応をしてくれなかった先生にも責任はあると思います。
 家族だってそうです。ばあちゃんは、あたしが虐めに耐えるのが限界で不登校になると知ってたのに、学校行かないとバカになるから歯を食いしばっていけ、またクラス替えがあるだろと言いました。父さんは、あたしが不登校になると、仕事を休んで学校に行って先生と話してくれました。でも、帰ってくると、じいちゃん、ばあちゃんと一緒になって、学校に行くよう説得を始めました。あたしが、一時的に虐めが止んでもまたすぐに始まるから怖いとか、学校に行こうとすると吐き気がしたり、動けなくなるとか必死で訴えても、宥めたり、社会に出たらもっと辛いから今からそれではやっていけないと言うだけで、あたしの辛さを理解してくれませんでした。ばあちゃんが世間体を気にするから、医者や学校カウンセラーのところにも行かせてもらえませんでした。父さんはじいちゃん、ばあちゃんに逆らえないから、結局従ってしまうんです。
 そのうち家族は、あたしが優等生になることは諦めたけど、せめて普通の子にしようとしました。家族の言うことは痛いほどわかります。でも、結局家族は、あたしを型にはめることばかり考えて、現実のあたしを受け入れられなかったんだと思います。だから、あたしは家族が嫌がるとわかっていたけれど、居場所を求めて、あたしを受け入れてくれるあまり良くない人たちと付き合うようになったんです……」

 海宝さんは、安堵に満ちた瞳であたしを見つめていた。
「千秋さんが、そう考えられるようになって本当によかったわ。先生方が、あなたが退院してからも安心してエクスポージャーを続けられる環境を整えて下さるから、心配ないわ」
 
 何だか泣きたくなったけれど、そっぽを向くふりをして、窓の外に視線を移して堪えた。思えば、初めて金先生、米田先生、海宝さんが3人で病室に来た日に、金先生はあたしの認知の歪みを指摘してくれた。米田先生も海宝さんも、事あるごとに、それに気づかせようとしてくれた。海宝さんは、自分が不倫していた過去をさらけ出して怖い話を作ってまで、あたしの歪んだ認知を修正しようとしてくれた。今までは、あたしに余裕がなく、心に響かなかった。治療を経て自分が成長できたことと、三人への感謝で胸が一杯になる。

「海宝さん、ありがとうございます!」

「なあに、急に」
 海宝さんは怪訝そうに眉根を寄せたが、すべてを理解したように目尻を下げて微笑む。

 あたしは、窓を開けて両手を大きく広げ、外の空気を大きく吸い込んだ。雨が残した湿気を含んだ風は、緑の匂いがする。その匂いが、草いきれがする川べりの道を自転車で高校に通った日々を呼び覚ます。


「さて、学生時代の怖い話、できた? 協力すると言いながら、バタバタしていて、時間がとれなくてごめんなさいね。できていたら、アレンジするお手伝いをするわ」
 あたしの隣に立つ海宝さんに、後ろめたさを感じながら答える。
「実は、金先生たちに言われたことをいろいろ考えてて、まだ……」

「そう。じゃあ、これから一緒に作りましょう。今回は、名前を実名にしてお話を作りましょうか。そのほうが怖いでしょう?」

「はっ、マジですか?」

 海宝さんは眉尻を下げるあたしに、張りのある声で促す。
「さあ、今回は自分で作ってごらんなさい。手加減して作らないように、私がさらに怖くアレンジするわ」

 海宝さんはワゴンの上にラップトップを広げ、入力の準備をする。

「中学のとき、ずっと仲良くしてくれた子がいるんです。莉子りこちゃんっていう子で、頭が良くて、明るくて、お人良しでした。このあいだ、莉子ちゃんは、不登校のあたしと親しくしたせいで内申書が悪くなったかもしれないという強迫観念が入ってきたんです。あたしのせいで、彼女は東京の有名な私立高校に落ちたのかもしれないって考えてしまって……。彼女は地元の進学校に行ったと聞いたけど、疎遠になっちゃって、その後はわかりません……」

「その後の彼女に、どんなひどいことが起こったか考えてみて」

 童顔に丸メガネを掛けた莉子ちゃんの笑顔が浮かぶ。優等生で人気者だったのに、スクールカーストの外にいる不思議な子で、仲間外れのあたしとも親しく付き合ってくれた。そんな彼女の不幸を想像すると罪悪感でぞわぞわするが、歯を食いしばって挑戦する。

「彼女は進学先の高校に不満を持っていて……、なかなか馴染めなくて、さぼるようになってしまって……」
 莉子ちゃんが苦悩する顔が浮かび、怖くて両手で顔を覆ってしまう。

「千秋さん、しっかり深呼吸して。自分の呼吸だけに集中するの」
 言われるがままに、荒くなった呼吸にしばらく注意を集中する。下腹にぐっと力を入れ、息を止めてみても、心臓は休むことなく早鐘を打っている。あたしの意志と離れて打つ心音に耳を傾けていると、少しづつ呼吸が落ち着いてくる。

「それから? 他に頭から離れない強迫観念は?」

「高校のとき、居酒屋で飲んでて補導されそうになって、みんなで走って逃げて散り散りになったことがあるんです。でも、先輩が一人だけ捕まったかもしれないんです。その先輩は、独りぼっちのあたしを仲間に入れてくれた軽いけど楽しい人です。あたしが捕まれば良かったのにって悔しいです……。先輩が大丈夫だったか知りたいけど、怖くて確かめられなかったんです。あたしはいろいろあって不登校になって、そのまま中退してしまったので、先輩のその後はわかりません。最近、先輩はラグビー部で活躍してて、有名大学の推薦狙ってたけど、補導されてダメになったかもしれないという強迫観念が入ってきて……。先輩の人生が狂ってしまわなかったか心配です」

「その先輩のお名前は?」

「……悠翔ゆうと先輩」

「悠翔先輩のラグビー推薦がダメになっていたら、どうなるの?」

「他の大学に進学するけど、憧れていた第一志望の大学でプレイできないことが辛くて苦しみます……」

「よく考えられたわね。他に消えてくれない観念はある?」

「学生時代じゃないですけど……。あたしと宮崎出身の彼の結婚話が出たことで、彼の妹の紗良さらちゃんの婚約が流れたかもしれないという観念が辛いです。あと、あたしのせいで、従姉妹の飛鳥あすかちゃんの結婚が破談になってしまうという観念が頭から離れません」

「紗良ちゃんと飛鳥ちゃんの結婚は、どうなってしまうと思うの?」

「2人とも、あたしと関係があるせいで、いいお相手との結婚がダメになります。そのせいで、幸せな家族関係が壊れてしまって……」

「なるほど。他に消えない観念は?」

「多分……、それくらいです」
 酸欠で真っ白になった頭をどうにかするために、深呼吸を繰り返す。

「避けてきた観念にエクスポージャーして苦しいわね。よく頑張ったわ。そんなときほど、マインドフルネスよ」

 あたしは鏡に映る女をちらりと窺う。女の目は潤み、頬と鼻は熱を帯びてほんのりと赤くなっている。女の肩は激しく上下している。この女にファンデーションをぬり直してやらなくてはいけない。それから、瞼の上にシャドウを入れ、口紅をつけてやろうとドキドキする胸を押さえながら考える。

 海宝さんは、話に出てきた人たちの名前の漢字をあたしに確認してから、ラップトップに向かう。時折手を止めて難しい顔をしながら入力を続ける。

「さあ、できた! あなたが怖がっていることは、もう現実になってしまったのよ」

 海宝さんは、あたしにスマホの録音機能を立ち上げるよう言ってから、澄んだ声で読み上げる。

「千秋さんの中学校時代の友人の莉子ちゃんは、千秋さんと仲良くしたために先生の印象が悪くなり、内申書に響いてしまいました。莉子ちゃんが第一志望の東京の私立高校に落ちたのは例の内申書のせいでした。失意の彼女は、地元の進学校に進学しましたが、さぼりが増え、良くない人たちと付き合うようになり、服装や髪型が派手になりました。大学入試にも失敗してしまった莉子ちゃんが、中学時代とは様変わりした格好で予備校の喫煙所に座り込み、軽薄そうな男性と大声で話しながら煙草を吸っていた姿が目撃されています。そのうち予備校の授業にも、出なくなってしまいました。その後の行方はわかりません。

 千秋さんと一緒に居酒屋で飲んでいた悠翔先輩は、未成年飲酒で警察に捕まり、高校にも連絡がいってしまいました。停学をくらったことが響き、応募したスポーツ推薦の選考から漏れてしまいました。それでも、第二志望の大学のAO入試に通り、ラグビー部に入部しました。プロチームにスカウトされることを夢見て練習に励んでいましたが、悪名高い鬼コーチに嫌われてしごかれ、練習中に大怪我をしてしまいました。怪我のせいでラグビーができなくなった悠翔先輩は、酒浸りになり、留年を繰り返した末に退学しました。夢破れた彼が、その後どうなったか知る人はいません。

 千秋さんの元婚約者の妹の紗良ちゃんは、地元の御曹司と婚約していました。でも、婚約者のご両親は、紗良ちゃんのお兄さんが千秋さんと結婚するのが不満でした。千秋さんが麻薬中毒で、薬を入手するためにヤクザの親分の愛人になった過去があると噂に聞いたからでした。千秋さんと親戚になるのを嫌うお相手側は、紗良ちゃんとの婚約を破棄しました。傷ついた紗良ちゃんは、自暴自棄になって夜遊びに明け暮れ、ご両親の注意も聞かなくなりました。ご両親は、千秋さんを連れてきたお兄さんに罵詈雑言を浴びせ、遂には勘当してしまいました。

 千秋さんの従妹の飛鳥ちゃんは、長年交際した恋人をご両親に紹介しました。恋人は、数年後に結婚を考えている意志を伝え、ご両親も大賛成でした。でも、しばらくして、その恋人は飛鳥ちゃんに別れを告げました。理由は、飛鳥ちゃんと仲良しの従妹の千秋さんが、ブランドバッグ欲しさに借金を重ね、パパ活までしているという噂を耳にしたからです。飛鳥ちゃんが千秋さんの借金の保証人にされたり、借金を申し込まれる可能性を考え、巻き込まれるのはご免だと思ったそうです。飛鳥ちゃんはそんなことを言う恋人に失望し、こっちからお断りだと切り捨ててやりました。それでも、飛鳥ちゃんの心の傷は深く、摂食障害になってしまいました。入退院を繰り返す飛鳥ちゃんの将来を憂い、ご両親まで身体を壊して入院してしまいました」

「どう? 傑作でしょ?」
 海宝さんは腰の横に手を当て、どうだと言わんばかりに胸を張る。

「ていうか、あたしはヤクとかパパ活してないし。ブランドバッグも興味ないしっ!」

「だから、噂だって言ったじゃない。恐れていることは起ってしまったのね。怖いわね」

 海宝さんは歌うような声で言い、ワゴンを押して出ていった。

 細い背中を睨みながら、本当に呪ってやりたくなった。自然にその感情が湧いたことにはっとしたが、彼女が不幸になるはずはないと思った。