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コラボ小説「ピンポンマムの約束」10

  本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 その後、米田先生は、神社が舞台なのでぞわぞわしながらも「紫陽花の季節」シリーズを読破できたことをほめてくれた。エクスポージャーの課題に、寺社仏閣や呪いが出てくる作品を読むことが加わり、海宝さんが『有閑倶楽部』「丑三つ時の女の巻」を勧めてくれた。

 けれど、あたしは、さっきの答えを保留にしていることがひっかかり、うわの空だった。過去に向き合わされるエクスポージャは怖い。けれど、治療を恐れ、入院をずるずる長引かせていては、医療費がかかって父さんに悪い。

 強迫観念に追い詰められて精魂尽き果て、死にたいと切望しているときは、何もかもどうでもよくなってしまう。けれど、観念に苦しめられて何もできない日々にいいかげん終止符を打ちたい!!

「あのっ!」
 衝動に突き上げられたあたしは、勢いよく会話を遮ってしまった。

 先生はキーを打つ手を止め、何事かと怪訝そうな顔を向ける。海宝さんもラップトップから顔を上げ、あたしが何を言い出すのか注視している。

「あ、えっと、さっきのエクスポージャー、やってみます」

 先生はあたしの顔を確認するように見た後、目を合わせて頷く。その眼差しには、あたしの決意を受け止める力強い光が宿っていた。海宝さんも、黒目がちの瞳を輝かせている。タイミングよく、雲の切れ間から射した陽が室内を明るく照らし、後押しされている気分になる。

「よく決心しましたね。ではまず、お座りください」

 あたしは勢いで立ち上がっていたことに気づき、赤面してすとんと腰を下ろす。海宝さんは口元を抑えて吹き出すのを堪えている。

「金先生にも治療の流れを共有していただきたいので、来ていただきましょう」
 
 米田先生が内線で呼び出すと、金先生はすぐに来てくれた。
 海宝さんの隣に座り、感情を映さない眼差しでカウンセリングの流れを注視しているが、その存在だけで、空気が引きしまる気がした。

「紫藤さん、治ったら何がしたいですか?」
 米田先生は両肘を立てて顔の前で手を組み、好奇心を浮かべた眼差しで尋ねる。

「え?」

「本当は入院してきたとき、あるいは治療を始める前にお聞きするのですが、あなたはカウンセリングで死にたいと取り乱し、それどころではなかったですね」

「あ、まあ……」
 強迫観念が怖いのは、あの頃と変わらない。けれど、いまのあたしには、観念と対峙する武器も、先生方のサポートもあると気づく。

「治って何がしたい、どうなりたいというイメージがなければ、辛い治療の途中で折れてしまうでしょう。まずは、1か月後にどうなっていたいですか?」

「う~ん、できれば良くなって退院したいです。でも、退院して大丈夫か不安のほうが大きいです……」

「退院したら何をしたいですか?」

「父さんやばあちゃんを安心させたいし、家のことを手伝いたいです」

「それから? 何か楽しいことも考えましょう」

「……化粧品を買いに行きたいです。父さんに化粧ポーチを持ってきてもらったんですけど、2年近く使ってなかったから、乾いてひび割れてたり、劣化して変色してるのがあって……。スポンジもカピカピで変な臭いがします」

 米田先生が苦笑いし、海宝さんは顔をしかめる。
「千秋さん、それ肌に悪いから使わないほうがいいわ。新しいのを差し入れてもらいなさい」

「ですね……」

「紫藤さんのマインドフルネスに必要ですからね。では、1年後は?」

「高卒の資格を取りたいので、認定試験を受けられたらいいと思います」
 
「なるほど。取得したら、大学や専門学校に進学する道が開けますね。高等教育機関で何を勉強して、将来はどの方面に進みたいですか?」

「できれば大学でコスメ業界の歴史とかを勉強したいです。その間に、メイク技術を磨いて、あらゆるコスメに詳しくなりたいです。卒業したら、デパートに勤める美容部員になれれば……。あ、でも……、あたしなんかが、そんな夢をかなえるのは許されないので……」
 美容部員になった自分を想像した途端、散々周囲を不幸にしておいて、幸せな未来を語るなど許されないという思いが、柱のように突き上げてくる。足元からぞわぞわ感が広がっていき、全身が震えだして言葉が出なくなる。

「紫藤さんの場合は、幸福な未来を考えることもエクスポージャーですね。『あたしなんか』は禁止です。人に世話をやかれたり、迷惑をかけたり、幸福を感じることにたくさんエクスポージャーして、慣れてください。『あたしなんか……』という考えに捕らわれていたら、また振り出しに戻って、『死にたい』と叫ぶことになりますよ」

「そうよ。思い切り図々しくなっていいのよ」

「その通りです。では、10年後はどうなっていたいですか?」

「わかりません……」
 蚊の鳴くような声で、そう答えるのが精一杯だ。たくさんの人を不幸にしたあたしが、幸せになっていいはずはないという思いに脳を占拠され、他の思考を受け入れる余地がなくなってくる。

 蒼白い顔で俯くあたしに、米田先生は容赦なく続ける。
「しっかり考えて話してください」

 いつの間にか、夢さえ語れなくなっていた自分に絶望し、やはり生きている資格などないという思いが頭をもたげてくる。けれど、脱却しなくてはいけないのは、そこに行きつくあたしなのだと気づいた。

「自分の売る商品に詳しくなって、お客様が美しくなるのをサポートできる美容部員に……なっていたいです。売上トップになったり、本社で商品開発に関わったりしたい……」
 海宝さんの持ってきてくれたボックスティッシュで涙を拭きながら、罪悪感を覚えずに夢を語れるようになりたいと思った。

「よく話してくださいましたね。それが実現する頃、強迫で苦しんだことなど、笑い話になっているといいですね。頑張りましょう」
 米田先生の声は思いのほか優しかった。 

「そのときは、男性用のスキンケア用品も、女性用と同じ規模で販売していてほしいですね。今のままではデパートに見に行くのが恥ずかしくて仕方ありません。ネットで注文する前に、店頭でサンプルを試したいこともありますから」
 金先生がロボットのような口調で口を挟んだので、皆がきょとんとした顔で彼を見る。

「ああ、前から思っていましたけど、金先生はお肌がきれいですよね。デパコスでケアしてるんですか?」

 海宝さんに尋ねられ、金先生は当然だとばかりにAI口調で答える。
「ええ、私はエスティ―ローダーの美容液 アドバンストナイトリペアを何年も愛用していますが、何か? メンズエステ通いも欠かせません」

「まあ、素敵! 私もアドバンストナイトリペアのシリーズを試したいけど、揃えると高価だから躊躇しちゃうのよ。因みに私、ファンデーションはエスティ―ローダーのダブルウェアーです。義理の娘に勧められたの」

「ああ、あれはカバー力があり、崩れにくいので、化粧直しが難しい看護師さんにはいいですね。長時間メイクを落とせない海宝さんには、肌に優しい美容液ファンデもいいのではないでしょうか? ディオールのフォーエヴァーフルイドグロウなどお勧めです」

「まあ、お詳しい。流石ですね。早速、調べてみなくちゃ」

 あたしは、金先生の女子力の高さにあっけにとられ、美容部員になりたいと言ったことが恥ずかしくなる。本音を言えば、デパコスは口紅を買うのが精一杯で、高価な美容液なんて憧れるだけで縁がない。でも、メンズコスメも勉強したいし、金先生のような男性に堂々と買いに来てもらえる売り場ができればいいと思う。
 
「では、そろそろ、本題に入りましょうか。時間も迫っていますから」
 メンズコスメなど敬遠しそうな米田先生は、ついていけない居心地の悪さから逃れるように切り出す。

「紫藤さんのご家族、友人に関する怖い話を作りましょう。まず、残りの時間で、ご家族に関する話を作りましょう。友人については後で自分で作ってみてください」

 米田先生は、あたしが提出したシートのコピーを見ながら尋ねる。
「御家族でよく出てくるのは、亡くなったお母さんとお祖父さん、それからお父さんとお祖母さんですね」

「はい……」

「あなたが優等生にならなかったから、死んだお母さんは墓のなかで怒っている。お祖父さんは、あなたが苦労をかけたせいで心臓を悪くして死ななければならなかったこと、あなたが法事にもお墓参りにも来ないことを怒っている?」

 あたしが小さく頷くと、米田先生はさらに尋ねる。
「他に怖いことはありますか?」

「あたしのために、父さんが会社を早退したり、休んだりしたことで、会社をクビになってしまうことです……。あと、ばあちゃんまで、あたしのせいで高血圧になって死んでしまうことです。あたしが生まれたせいで、生きてるだけで、家族も親戚もみな不幸になるんです……」

 突然起こった金先生の乾いた失笑に、みなのぎょっとした視線が集中する。初めて見た先生の笑みは、精巧なロボットが誤作動したかのような異様さがある。
「強迫症の方は、自意識過剰が多いですね。あなたもそうです。いまの話を聞いていると、一族郎党の不幸の原因をすべてあなたが背負っているような言い方ですよ」
 
「あたしは別に自意識過剰とかじゃなくて、本当に……!」

「前にも言いましたが、お母さんが出産で亡くなったことに、赤ん坊だったあなたは何の責任もないでしょう。子供のあなたに、死んだお母さんのために頑張れ、優秀な子になれと期待をかけすぎて追い込んだ責任はご家族にあります。あなたが虐められて不登校になったのは、あなたをそうなるまで虐めた加害者と、あなたに安全な環境を提供できなかった学校側の責任です。家にも学校にも居場所がないあなたが、補導されるような行動に走ってしまったのは周囲の大人の責任が大きいでしょう。それから、先日荷物を届けにきたお父さんとお話しさせていただきましたが、お祖父さんはもともと心臓が悪く、あなたがバイクで無免許運転をしていた先輩の後ろに乗っていて捕まったことと発作を起こしたことは関係ないそうです。あなたは未成年の同乗者で、不処分だったそうですね。前科にもなりませんよ。お祖母さんは若い頃から血圧が高いので、あなたのせいではないそうです」

「でも、あたしが従妹みたいに出来のいい子だったら、家族も鼻高々だったと思うし。どこでもいじめられるような子ではなかったら、家族にも迷惑や心配をかけなかったし」

「家族と言うのは、本人が意図しなくても迷惑や心配を掛けたり、掛けられたりするものでしょう。障害を持って生まれた子供は、それが本人の意図ではなくても、家族に時間や金をかけさせたり、泣かせたりするでしょう」

「金先生のおっしゃることわかるわ。親が優秀で、子供がそうでなかったら、子供は劣等感を抱いて苦しむかもしれないわね。けれど、親は子供に劣等感を抱かせて苦しめるために、たくさん勉強して良い職についたわけではないでしょう? 誰かが悪いわけではないのに、存在そのものが誰かを傷つけてしまう関係はあちこちにあるのよ。私の家族もそうだったわ……」

「金先生と海宝さんのおっしゃる通りです。因みに、親が子供のために、やむを得ず仕事を早退したり、休んだりするのはあなたの家だけではありません。この頃では、父親が子育てに参加するのは当然で、私も子供が小さい頃は、熱を出した子供を保育園に迎えに行くために、やむを得ず患者さんにカウンセリングの時間をずらしてもらったことが何度もありました。紫藤さんのお父さんのように、シングルファーザーなら、遅刻早退や欠席があるのは当然でしょう。会社は、抜けた穴を埋め合わせられる環境を整えるべきなのです」

 金先生が頷き、あたしに問いかける。
「これであなたの認知が、どれほど歪んでいるかわかったでしょう? あなたは、不運の原因を全て自分が背負って、自分は幸せになってはいけないと思い詰めているのです」

 どう答えていいかわからないあたしに、米田先生が尋ねる。
「紫藤さん、まださっき話したことが怖いですか?」

 あたしが頷くと、米田先生はパソコンに向かい、目を閉じて考えたあと、忙しくキーを叩きながら読み上げる。

「紫藤千秋さんの周囲には、成仏できない2つの魂が彷徨っています。お母さんの魂は、娘が『あたしを生んだせいで母さんは死んだ』と苦しんでいることが心配で成仏できないのです。命がけで産んだ千秋には、思うように生きてほしいと思っているのに……。お祖父さんの魂も、可愛い孫が『あたしのせいでじいちゃんは心臓を悪くして死んだ』と苦しみ、法事にも墓参りにも来てくれないので、気がかりであの世に行けません。近頃では、2つの魂は、千秋さんが『あたしのせいで父さんが会社をクビになるかもしれない』、『ばあちゃんまで、あたしが心配をかけたせいで黄泉の国にいってしまうかもしれない』と怯えていることを心底心配しています……」

 金先生が続きを引き受ける。
「しかし、2人とも時が経つにつれ、千秋さんのせいでいつまでも成仏できないことに怒りを募らせていきました。そこで意気投合した2つの魂は、千秋さんをこらしめてやろうと言い出します。まずは、その怒りを伝えるために、千秋さんの写真に写りこんでやろうか、夢枕に立ってやろうかと相談しています」

 想定していたのとは違う話が出てきて米田先生と金先生の機転に驚愕したが、あたしをぞわぞわさせるに十分な話だった。これでは、怖くて写真を撮れないし、眠れなくなるじゃないかと叫びたかった。下手をすれば、写真を撮るエクスポージャーをしようと言われかねない。

「お2人とも傑作です。友人に関する怖い話は、私も千秋さんに協力してつくりますね。お2人に負けないように私たちも傑作を作りましょうね、千秋さん」

 怖くてすすり泣いているあたしに構わず、米田先生は出来立ての話をあたしのスマホに録音し始め、海宝さんは腕組みをしてどんな話にしようか考えている。金先生は、いつものように糊の効いた白衣の裾を翻し、幽霊のように足音を立てずに出ていった。