コラボ小説「ピンポンマムの約束」9
本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。
海宝さんは変わらず丁寧に接してくれる。金先生も毎朝隙の無い服装で現れて、薬の効果や気分を淡々と尋ね、足音なく去っていく。けれど、あたしは目に見えない壁のような気まずさができてしまった気がしている。あたしに後ろめたさがあるから、そう感じるだけかもしれないけれど……。
それでも、あたしは彼らにスイッチを入れられた。強迫観念に苦しめられ、自分のことを考える余裕なんてない、あたしの苦しさなんかわかりっこないと殻に閉じこもることもできた。でも、あたしを真摯に治療してくれる彼らを前に、あたしに甘えがあったことを気づかされたので、頑なになるのは子供っぽいと思ったからそうしなかった。
とりあえず、エクスポージャーに全力で取り組んで病気を治したい。良くなれば、”紫陽花の季節”シリーズから生きるエネルギーをもらえるかもしれない。気力が回復すれば、あたしの将来のためにどんな学歴が必要か考えられるだろう。
とはいっても、強迫観念には相変わらず打ちのめされる。明け方に湧いてきた観念は強敵だ。トイレで用を足しているとき、「死んだじいちゃんは、あたしが法事に出られず、お墓参りにも行けないので怒っている」という観念に直撃された。怖ろしさで総毛立ち、息苦しいほど鼓動が速まった。涙が止まらなくなり、布団にもぐって声を殺して泣いた。起床時間には、枕元に丸めたティッシュの山ができていた。
ぐったりしてしまい、ずっとベッドで過ごしたい気分だった。それでも、自分を叱咤して歯を磨き、顔を洗い、朝食を食べて薬を飲んだ。
父さんに差し入れてもらった卓上ミラーを床頭台に立て、自分の顔を映す。目が腫れぼったく、鼻は無残に赤らんでいる。鼻をかみすぎたせいで、鼻の下がひりひりする。伸びすぎた前髪をピンで留めると、世界中の不幸を引き受けたような女が無気力にこちらを見ている。目を背けたいのを堪え、女を睨みつけてやる。
洗顔後につけておいた化粧水と乳液の上に、化粧下地をカピカピのスポンジに出して伸ばす。父さんが持ってきてくれた化粧ポーチの中身は、長らく使っていなかったせいで、乾いていたり、明らかに劣化しているものがある。劣化が心配なリキッドファンデーションをスポンジに絞り出し、両頬とおでこに乗せる。ファンデーションを広げていくと、鼻の赤みやクマが隠れる。こんなふうに観念を一掃できたらいいのにと思う。眉を描かれ、アイラインを引かれる女を見ているうち、観念に打ちのめされた自分を突き放した視線で観察していることに気づく。怯える自分と距離をとれた気がし、不思議と心が凪いでいく。お化粧が好きだったあたしには、変わっていく顔を観察することが効果的なマインドフルネスになりそうだ。乾いてひび割れているアイシャドウを指で取り、うっすらと目の上に伸ばす。少しでも顔色が良くなるように選んだオレンジブラウンが、女の目元を華やかに彩る。薄紅色のチークをブラシでさっと乗せ、使い古した口紅を塗ると、この女もまだいけるじゃんと思った。
パジャマを脱ぎ、父さんが持ってきてくれた白いカットソーとピンクのミディスカートに着替え、髪をポニーテールにする。身支度が済んだ女の顔を鏡に映し、「いざ、出陣!」と気合を入れる。
部屋を出ると、廊下の窓に横なぐりの風に飛ばされた雨粒があたり、気分が萎えそうになる。厚い雲とどこまでも続く灰色の空を見ると、午後も外に出られないだろうと思った。院内を歩きまわって人を呪う前に、下のコンビニに寄り、口紅とアイシャドウを買おうと決めた。
ナースステーションの前を通り、エレベーターホールに向かおうとしたとき、「ちょっと」と声を掛けられた。
振り返ると、看護師長がフルメイクしたあたしの顔をまじまじと見ている。
「個室に入っている紫藤さんだよね。お化粧はやめてくれる?」
40代半ばの看護師長は、長身でプロレスラーのような体型だ。あたしは、入院したての頃、カウンセリング室で取り乱し、彼に注射を打たれた。高圧的な物言いをされたので、良い印象はない。
「でも……」
あたしは「海宝さんは以前、メイクもしたらと言ってくれた」という言葉を飲み込む。海宝さんが看護師長に怒られる様子が浮かび、それだけは避けたいと思った。
「あたしは、メイクをしながら鏡の中の自分を他人のように見ることで、強迫観念から距離をとれるんです」
あたしは、看護師長の細い目を見据えて懸命に訴える。
「看護師は、患者さんの体調を把握するために顔色を見るんだよね。お化粧をしてると、顔色がわからないでしょう」
腕組みをした師長は、威圧するかのように鋭い視線を向けてくる。あたしは、そのときは落としておくと反論しようと身構える。
「申し訳ございません。千秋さんのメイクについては、私が師長に報告するのを忘れていました。彼女の治療に必要なので見守っていただけませんか。バイタルチェックのときは、必ず落としていただきますから」
驚いて振り返ると、海宝さんがあたしに小さく目配せする。小柄な海宝さんは、言葉は丁寧でも、一歩も引かないと言いたげな眼差しで師長を見上げている。師長は気圧されたように、居心地悪そうにしている。
「あなたは、エクスポージャーに行ってらっしゃい。あとは師長と私で話します」
「でも……」
「いいから、いってらっしゃい!」
海宝さんはあたしに言い放ち、師長を促してナースステーションに向かう。あたしはエレベーターホールに向かおうとしたが、どうしても気になって彼らの後をつけてしまう。
2人はナースステ―ションの入口近くで話を続けている。あたしは、彼らから死角になる柱の後ろにしゃがむ。
「報告が遅れて申し訳ございません。千秋さんのメイクは、主治医の金先生も許可しています。必要でしたら、先生から説明していただきますか?」
「いえ、それには及びません……」
「かしこまりました。私の報告が遅れてしまったことを重ねてお詫びいたします。千秋さんのメイクのことで、何か問題がありましたらいつでもおっしゃってください」
海宝さんにここまでしてもらったことで、ぞわぞわ感が全身を突き抜け、心臓が早鐘を打ち始める。彼女に申し訳なくて、出ていって謝りたい衝動に駆られる。
あたしは、メイクをする前に、海宝さんか金先生に許可を取るか、ナースステーションに行って許可をもらうべきだった。海宝さんが金先生も了承済みと言ったのはあたしを庇うための嘘だろう。いま、あたしが出ていって謝ったら、それがばれて厄介なことになるかもしれない。
バカなあたしのせいで、師長にも海宝さんにも嫌な思いをさせてしまったことが申し訳なくて居ても立ってもいられない。けれど、いまあたしが出ていったら、余計に面倒なことになる……!
こういうときは、その場を離れなくてはならない。あたしはエレベーターを待たず、5階から1階まで超人的なスピードで階段を駆けおりる。息が整わないまま、廊下の奥にあるコンビニまでつかつかと歩き、店内に入る。
酸欠でしゃがみこみたくなるが、心が伴わないまま、色とりどりのペットボトルに目を走らせる。会計をする店員の声、Suicaがピッとなる音、Edyのシャリーンという音、自動ドアの開閉音があたしの激しい心音と重なり、耳を通り抜けていく。
ペットボトルショーケースの透明な扉に、血相を変え、荒い息を吐きながら肩を上下させている女がぼんやりと映る。ピンで止めるのを忘れた後れ毛がだらしなく垂れさがっている。トリガーにぶつかった直後のあたしは、こんな姿だ。
海宝さんと試したマインドフルネスを思い出し、この女をじっくり観察してやると決めた。女の手は汗ばみ、背中もうっすらと濡れている。心臓はドクドクと忙しなく打っている。自分を客観的に観察すると、ほんの少し気持ちが鎮まる。
あたしは、コスメやお泊りグッズが並ぶコーナーに移り、商品に目を向ける。コンビニと自然派コスメブランドが共同開発したお泊りセットのパッケージデザインが可愛い。こんなの出ていたんだと思わず手に取り、それをレジに持っていってd払いで支払った。
コンビニを出た後、細長いビニール袋に入れた傘を持つ外来患者や、きびきびと歩くスタッフに混じり、気を静めるためにひたすら歩く。エクスポージャーの課題を思い出し、みんな死んでしまえばいいという勢いで、目につく人を呪っていく。ぞわぞわするが、たくさんの人を呪っているうち、誰を呪ったかわからなくなる。1階を端から端まで十往復したころ、こんなことをしているあたしは、傍目から見たら間違いなくアブナイ人だと気づいた。そういえば、あたしは口紅とアイシャドウを買う予定だったのだ。
コンビニに戻り、サーモンピンクの口紅とピンク系のアイシャドウを選ぶ。会計のとき、若い女の子だと思っていた店員が、痛いほど若作りした中年女性だと気づいた。彼女は、レジが空いたときを見計らい、届いたばかりのおにぎりやサンドイッチの検品を始める。
あたしは、パンコーナーの近くに並ぶ一口サイズの羊羹やパウンドケーキを選ぶふりをしながら、中年女をちらちら観察する。ウェーブをかけた髪は明るく染められているが、年齢のせいかボリュームがなく、頭頂部が目立つ。びっしりと睫毛エクステをして、ラメ入りのアイシャドウを塗り、小さな目を華やかに見せている。だが、目の下の弛みは隠せず、ぱっくりとしたしわにファンデーションとラメが入りこんでいる。法令線が目立ち、たるんだ頬は、大きく入れたチークを滑稽に見せている。グロスがテカテカ光る厚い唇が不気味だ。年相応のメイクができないのが痛々しい。この女が、さらに老いても若者メイクを続け、妖怪のように醜くなるよう念じる。そのとき、検品の手を止めた女と目が合ってしまう。
心臓がびくんと跳ね上がり、ぞわぞわ感が全身を飲み込む。逃げるようにコンビニを出た。こんなことは以前もあった。呪いが本当にかかってしまわないか気になり続けたことが脳裏を過る。もっと怖い呪いを誰かにかけてやろうと決め、ちょうど来たエレベーターに滑り込んだ。呪った相手と目が合えば、さっきの女のことが気にならなくなるだろう。
自分の病室のある階で、見舞いに来た家族らしき集団につられ、あたしもおりる。エレベーターホールに置かれたソファに、見るからに上質なパジャマを着た若い男性が座っているのが目に入った。高そうなスリッパを履いた右足が貧乏ゆすりで小刻みに揺れている。次のターゲットを彼に定めた。彼と向かい合うソファの隅に座り、スマホをいじっているふりをして彼を観察する。目を伏せているが、不自然なほど目鼻立ちの整った男性だ。ちょっと痩せすぎだが、モデルか俳優になれそうだ。だが、不思議とイケメンが放つオーラを感じない。目は自信なさそうに泳ぎ、唇の端が時々ぴくぴく痙攣する。忙しない貧乏ゆすりと魂のぬけた目が、秀でた容姿とつりあわず、入れ物と魂が分離しているような空虚な印象を与える。そのとき、前に洗面所で一緒になった摂食障害のお姉さんに、醜形恐怖症で美容整形を繰り返す駆け出しの俳優が入院していると聞いたのを思い出した。この男性に違いない。あたしは、ぞわぞわしながらも、彼が整形に失敗してお化けのように醜くなるよう呪いをかける。胸が苦しいほど鼓動が速まっていくが、彼を見つめ、さっきの中年女性のときのように目が合えと願う。だが、彼は足元を凝視していて、いつまで経っても顔を上げない。焦りで手に汗がにじんでいく。そのうち、昼食の時間が近づいてしまい、あたしも彼も看護師さんに部屋に戻れと言われる。気になることをもっと広げたいが、広げすぎると止まらなくなって、パニックになる。米田先生の言葉を思い出し、中年女のことも俳優のことも2週間放置すると決めた。
後ろ髪を引かれながら部屋に帰り、ベッドに腰かけてシートで化粧を落とす。いつもより美人のあたしが、見慣れたあたしに戻っていく。アイシャドウを拭きとりながら、海宝さんには、今度来たときお礼を言えばいいという気持ちになっていると気づいた。じいちゃんのこと、さっき呪った中年女と俳優のことはまだ気になり、意識の隅が突っ張るような感覚がある。でも、それに引っ張られまいと、化粧水と乳液をつけることに集中する。クリームを塗りながら、米田先生に提出するシートに◎が増えるとガッツポーズをしたい気分になった。
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「おぉっ、劇的な回復ぶりですね!」
米田先生はあたしの提出したシートを見て目を瞠る。
「だいぶ、世話をやかれることに慣れたようですね……」
先生は小さく頷きながら、2週間分のシートを繰っていく。
「先日、千秋さんがお化粧をしているのを看護師長がとがめたとき、私がかばったんです。私が師長に報告するのを忘れてただけで、金先生も許可していますと言ってね。きっと、千秋さんはぞわぞわして取り乱すと思ったの。でも、そのままエクスポージャーに出たのは偉かったわ。夕方、私が病室に行ったとき、御詫びとお礼を言われただけでしたよ」
「それは、頑張りましたね」
「はい。謝ろうと思ったんですけど、ぞわぞわ感を抱えたまま、エクスポージャーに向かいました」
「素晴らしいです。実は、あなたをぞわぞわさせる材料に、笹団子を買ってきたのですが、むしろご褒美になりますね。3人で食べましょう」
「わあ、嬉しい。またまた千秋さんは特別扱いですね」
海宝さんが意味ありげにあたしをのぞき込む。
「そうですよ。患者さんにお菓子を出したのは初めてですからね~。金先生のように、昼休みに買いに行ってきたんですよ」
米田先生は、あたしをちらちら伺いながら、冷蔵庫から1.5リットルのミネラルウォーターを取り出し、紙コップに注いでくれる。
笹の葉を剥き、ほんのりと笹の香りの染みた蓬餅を口に含む。どこか懐かしい味が口の中に広がると、子供の頃の記憶が弾けだす。
「新潟県民のソールフードは最高ね。私もすっかり新潟県民だわ」
ぺろりと平らげた海宝さんは紙コップの水を口に運ぶ。
ぞわぞわ感を味わいながら食べた笹団子は、できたてでやわらかく、餡が優しい甘さで美味しかった。金先生のケーキ攻撃のときよりは、挙動不審にならずに済んだ自分をほめてやりたくなる。
「さて、鏡を見ながらお化粧をするのが、良いマインドフルネスになっているようですね」
米田先生がウェットティッシュで指先を拭きながら尋ねる。
「はい。強迫観念に怯える顔を鏡に映すと、突き放した目で鏡のなかの女を観察できるんです。打ちのめされた女を見ると、同情よりも冷淡な感情が湧きます。そんな女にメイクを施していくうちに、五感が開いて感じることに集中できます。気持ちも凪いでいって、強迫観念から距離をとれるんです」
「それはいい方法を見つけましたね。これからどんどん使えますね」
米田先生は満足そうに、パソコンに打ち込んでいく。キーを叩く音がいつもより軽快なのがわかる。
「はい。強迫観念に襲われた朝も、化粧をしているうちに、距離をとることができました。人を呪うエクスポージャーで気になることができたときも、部屋に帰って化粧を落としているうちに落ち着いてきました。気になることを2週間そのままにせず、咄嗟に広げてしまったのは反省ですが……」
自分から得意そうに話すあたしを見て、米田先生も海宝さんも嬉しそうだった。
「朝昼晩のバイタルチェックのときはメイクを落としてね」
海宝さんが念を押すように言い添える。
敬礼で了解サインを出すあたしに、米田先生がシートを見ながら切り出す。
「相変わらず、強迫観念が日に何度も浮かぶようですね」
「はい……。どうしても、打ちのめされてしまいます」
観念のことを言われると、高かったテンションが急降下してしまう。
「最近、一番怖かった強迫観念はどんなことですか?」
「死んだおじいちゃんが、あたしが法事に出られなくて、お墓参りにも行けないから怒ってるということです……」
2週間は放置し、自然に薄れていくまで堪えると決めたが、口に出すと鮮明になり、ぞわっとしてしまう。
「どうして、法事もお墓参りも行けないのですか?」
先生の質問に、余計なことを言ってしまったと自分を呪ったが、もう遅い。観念して打ち明けるしかないと覚悟を決める……。
「おじいちゃんはあたしが心配をかけたせいで心臓を悪くしたから罪悪感があります。あと、お寺とか神社とか神様の力が強く働いてる場所は、頭に浮かんだことが現実になりそうで……」
「怖くて行けないということですね。それも、エクスポージャーの課題になりますね。川副に協力させましょう」
やってしまったと溜息をつくあたしに、先生が言い継ぐ。
「それはさておき、浮かんだ観念を記録していただいたシートを見ると、紫藤さんの御家族、友人が絡むことが多いですね。生い立ちと学生時代に関係する罪悪感から発していますね」
先生はいつもより固い声で、ゆっくりと切り出す。
「この辺りで、紫藤さんの今までの人生がもたらす影響に関する怖い話を作り、何度も聞くエクスポージャーに挑戦してみませんか?」
恐ろしさで絶句するあたしに、先生は続ける。
「逃げているから怖くなるのですから、一気にエクスポージャーしてしまう荒療治です。以前、浮かんだ観念は、散々苦しんだ後は消えてゆくとおっしゃいましたね。後で思い出しても、最初に浮かんだときほど苦しまないとも」
「先生がこうした提案をするのは、千秋さんの治療が進んでいるからこそよ。いまの千秋さんなら、耐えられそうということですよね?」
「そうです。もちろん、無理強いはしません。紫藤さんの気持ちがしっかりしていなければ、逆に症状を悪化させてしまうかもしれません」
あたしは、思い出したくない過去に襲われ、もだえ苦しむ自分を想像して身震いする。それでも、米田先生と海宝さんを呪う話を何度も聞くエクスポージャーで、手ごたえを掴んだ記憶がよみがえる。そして、今のあたしには、メイクをしながらのマインドフルネスという武器がある。
「もし挑戦するなら、我々が見守ることのできる入院中がいいと思います。慎重に進められるし、何かあったら、すぐに対応できますから」
「あの、今すぐに決めなくてもいいですか?」
「勿論です。心の準備ができたら教えてください」