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ピアノを拭く人 第3章 (6)

「何?」
 彩子は透の目を見るのが怖く、彼の黒いセーターの胸元に視線を固定して尋ねた。外の静けさが、部屋に漂う緊迫した空気に拍車をかける。

「彩子の年齢だと、結婚して、子供がほしいと思うだろう?」
 彩子は、透の質問の意図がわからず、自分の答えが彼を遠ざけてしまうことが恐かった。だが、彼が何かしらの決意を胸に、切り出している以上、自分もそれに答えねばと思った。
「私は、あくまでも、その人との関係のなかで大切な選択をしたい。恋人と時間を重ねて、この人と人生を共に歩みたいと思ったら、結婚という選択をする。結婚して、2人で生活する中で、子供が欲しいと思うかもしれないし、2人で十分と思うかもしれない。どうしていま、そんなこと聞くの?」
「彩子を好きだから、大切に思っているから、はっきりしておきたいんだ。俺は、この先、結婚することはあるかもしれないが、子供はつくらない」

 彩子は、透が息を詰めて自分の反応を伺っていることに気づいた。
「透さんの選択は否定しないけど、どうしてか聞いてもいい?」
「俺は精管結紮手術、いわゆるパイプカットをしている。理由は子供が嫌いだからだ。45年生きてきたが、欲しいと思ったことは1度もない。他にも、俺の収入と年齢、おまけに神経発達症と強迫症もちで責任を持てないとか、神経発達症を遺伝させたくないとか、挙げればいくつも理由は見つかるが、単に子供が嫌いなんだ」
 彩子は、多少面食らったが、いい歳の大人が選択した結果に口出しする気はなかった。
「透さんの考えはわかったよ。話してくれてありがとう」

 彩子のやけにあっさりとした反応に、透は拍子抜けしたようだった。
「変わった女だな……。普通は俺を罵倒するだろ。変人、冷血漢、サイコパス、人間的に未熟、やりまくりたいだけとか。そうでなければ、自分の子供は可愛いと思えるからとか、あなたは家庭環境に問題があったけど私と築く家庭は違うと、再建術を受けるよう説得を始める」
 透は驚きと解放感が同居したような口調で言った。
「それ全部、言われたわけ?」彩子は笑いを堪えながら尋ねた。
 透は肯いた。
「最初に、恋人にそのことを打ち明けていれば、交際期間を無駄にさせないし、誠実だと思うよ。それに、共働きで子供なし、いわゆるDINKSは、会社の先輩にたくさんいるから、私はめずらしいことだと思わないけど」
「彩子も、そういう選択肢はありだと思ってる?」
「もちろん。一緒に人生を歩みたいと思った人が、そういう考えだったら尊重したい。私、結構仕事好きだし、絶対に子供欲しいわけじゃないから。家は兄に男の子ができたから、私が子供を持たない選択をしても、親はそれほど煩く言わないだろうし」
 彩子は透の表情が緩んだのを見て、冷めた玉露を淹れ直そうと台所に立った。

 

 彩子は玉露を淹れる湯の温度を50~60度に調整しながら、対岸から見守るように、リビングの透を眺めた。老眼が入っているのか、彼は手にした文庫本をやや離して読んでいる。自分は、この男のことを何も知らないまま、好きになったのだ。だが、そもそも、他人のことをすべて知ることなどできるはずはない。
 彩子は透に玉露をすすめ、隣に掛けた。
「そういえば、私の家族のこと話してなかったね。うちは薬剤師の両親と兄、私の4人家族。兄は地元の病院に勤めてて、同僚の看護師さんと結婚して、男の子が1人いるの。私はもう叔母さん」
「理系一家だな……。彩子は薬剤師には興味がなかったの?」
「うん。私は薬よりもコンピューターに興味があったから大学は情報工学。医療系の専門職一家のなかで、肩身の狭い思いをしております……。透さんのご家族のこと、もしよかったら、教えてくれる?」

「さして面白い話ではないが、話しておこう」
 透は湯飲みをサイドテーブルに置き、膝の上で手を組んだ。
「両親は俺が3歳のときに離婚したから、父のことはよく覚えていない。母の話だと、父は日本人の両親のもと日本で生まれた。だが、親の仕事の関係でアメリカとカナダで育った。アメリカで博士号を取り、日本の教育系の大学に専任講師として就職。専門は日米の都市の音楽による地域振興だが、大学では英語を教えていた。母は父が勤める都内の大学の院生だった。そのとき、バイトで父のリサーチアシスタントを務めた。2人はそこで恋に落ち、できちゃった婚。母は音楽教育の研究者になりたかったが断念」
「3歳なら、お父さんのことを覚えてないのも無理ないね」
「俺が覚えているのが記憶なのか、写真を見て後付けされたものかはわからない。そのときは子供でわからなかったが、両親の離婚は俺が原因だ」

「どういうことか、聞いてもいい?」
 透は頷いた。
「父は子供嫌いだったそうだ。俺の子供嫌いは遺伝だな。母方の祖父母によると、彼らは母が妊娠したとき、責任を取って母と結婚しろと父に迫った。父は騒ぎにされると、学生と面倒を起こしたと大学にばれて大変なことになるので、そうするしかなかった。俺は神経質な赤ん坊で、火がついたように泣きわめき、なかなか泣き止まなくて、家族は疲労困憊したそうだ。今思えば、俺は神経発達症のASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)のせいで、聴覚過敏と感覚過敏がひどかったのだと思う。今でも、特に感覚過敏がひどくて、下着の縫い目が肌に当たるのが気になるから、ひっくり返して着ているくらいだ。我慢ならない音、臭い、食感もたくさんある。しゃべれない赤ん坊の頃は、苦手な音、味、触感に不快になるたびに、泣きわめいていたと想像できる。成長しても、よく泣き、癇癪を起し、ADHD(注意欠陥/多動性障害)のせいで言動に落ち着きのないガキだったようだ。子供嫌いで神経質、切れやすい父が、毎日地獄だったことが想像できる」
 透は自嘲気味に言った。
「母から聞いたが、父は北米の大学に就職したかったが、たまたま日本の大学に就職できたので帰国したんだ。でも、日本語の読み書きが完璧ではないし、日本に馴染めなくて、北米の大学に移るために転職活動を続けていた。そして3年後に、カナダの大学に移れることになった。父にとっては離婚を切り出す絶好の機会だ。神経質な透は、カナダに連れていったら、余計に不安定になるだろうし、君も大変だろうと母を説得し、相応の慰謝料を払って離婚成立。母は、地元に帰って高校の音楽教師になり、祖父母の手を借りながら俺を育ててくれた。祖父は持っていた土地をアパートと駐車場にして、その収入を俺の学費に充ててくれた」

「お父さんと、その後は?」
「1度も会っていない。数年前まで、カナダやアメリカの大学で教えていたのは大学のHPで確認したが、今はわからない」
「そう。お母さまは、昨年亡くなったの?」
 透は頷いた。
「母は俺ができたために大学で教える夢をあきらめ、俺がいつか花開くと信じて投資を続けたが、失望の連続だった。まず、俺をコンサートピアニストにしたかったが、ピアノ教室に通わせてみて、その才能がないと早々に気づかされた。いま思えば、俺の手先の不器用さは、ASDの発達性協調運動障害のせいかもしれない。同級生が難なくできる蝶結びやボタンかけ、球技や体操がなかなかできなかった。コミュニケーションが苦手で、不器用だったから、小学校から高校まで、ずっとからかわれて、ぶたれて、蹴られて、笑われて、陰口を言われて、仲間外れにされた。友人ができても、俺がKYで余計なことを言ってしまったり、口下手で一緒にいてもつまらないのか、長続きしなかった。そんな俺は、何度も不登校になり、音楽に逃げた。そのたびに、母は心労を重ねた。俺が声楽で音大に受かったときが、母が報われた唯一の瞬間だ。卒業後は、どんな仕事に就いてもうまくいかず、母が苦労して見つけた私立高校の音楽教師の職も、首になった。母は俺の将来を案じ、教師を退職後も、県の嘱託の仕事をして、生活を支えてくれた。強迫性障害になったことは、乳癌を患う母に隠していたが、彼女は俺がおかしいのに気づいていたと思う。死の床でも、羽生夫妻に、俺を頼むと懇願していた。最後まで、心配をかけたままだった……」
「でも、あなたはお母さんの期待に応えようと、ずっと努力を続けてきたんでしょう。お母さん、そのことはわかっていたと思うよ。思い通りにならなかったのは、あなたのせいじゃない」
 透は彩子の肩をぎゅっと抱き寄せ、頬にそっと口づけた。
「母は俺を生むか随分悩んで、生むことにしたそうだ。その結果がこれでは、報われなかったよ……。母も祖父母も気の毒だ。祖父母は、俺を褒める材料がなくて、素直ないい子とか、容姿ぐらいしか褒めなかった」


「透さんは、お父さんとお母さん、どちらに似たの?」
「顔は父。背が高いのは母方。神経発達症は父からの遺伝だ。彩子はどちらに似た?」
「身長と目元は父。その他は母。自分の意見をはっきり言う可愛げのない性格も母譲り。子供のときから背が高かったから、宝塚の男役なんてよく言われたな。顔が悪いから、そんな華やかな世界に行けないけど」
「そんなことはない。彩子は小顔で、きりっとした顔立ちで俺好みだ。背が高いのも好みだ」
「ありがとう。透さんは、容姿に恵まれてるから、随分もてるんでしょ? 羽生さんから聞いたよ」

 透は、足元に視線を落とし、やや間を取ってから切り出した。
「俺はADHDのせいか落ち着きのない男で、大学のときから女性と付き合っても、長続きしなかった。別れるときは、随分失礼なことをした。それを繰り返すうち、真剣な付き合いが面倒になった。まあ、性欲はそれなりに強いから、そのとき、そのときで関係を持つ、軽い付き合いの女性がいた。そんなとき、昔のモデル仲間がパイプカットをしたと聞いて、俺も30のときに手術を受けた」
「迷いはなかったの?」
「医者は後悔しないかと何度もしつこく尋ねた。でも、俺は自分のような子を増やしたくなかったし、責任を取ることもできないから、迷いは一切なかった」
 透は両手で顔をこすり、浅い息を吐いてから言い継いだ。
「強迫症がひどくなってから、そういう女性は離れていき、俺も距離をとった。今後、もしかしたら、彩子がそういう女性と顔を合わせたり、噂を耳にしたりして、嫌な思いをさせるかもしれない」
 彩子は、どう返していいかわからず、規則正しく動く時計の秒針を見つめていた。

 透は彩子に体を向け、視線を合わせると、一語一語を絞り出すように続けた。
「けれど……、こんな俺だけれど、彩子と真剣に付き合いたい。強迫症で奇行を繰り返す俺を気味悪がらず、寄り添って支えてくれることに甘えてしまい、気がついたらどうしようもないほど好きになっていた。俺は強迫を治して、彩子と幸せになりたい。でも、彩子が俺の話を聞いて、嫌になったなら、もう2度と彩子の前に現れない。彩子が決めてほしい」