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詩と小説のコラボ with ましろさん Ⅳ

   今回も、ましろさんの作品に、私が短編を添えさせていただきました。 
 ましろさんの作品は、様々なものを抱えていても、こんな時間があれば、もう少し頑張れそうだと思える時間を切り取っていると思いました。私の中で、この作品が日々奮闘している方々へのエールになるのではという思いが芽生え、浮かんできたのが短編小説「10分間の私」です。

 主人公は、コロナ禍で仕事に復帰し、家庭との両立に奮闘する33歳の女性です。魔の2歳児の育児に家事、コロナ禍で旅行代理店から他業種に出向させられた機嫌の悪い夫、職場の若い同僚の嫌味な言動……。様々なものを抱え、くたくたになりながらも、駅から実家に子供を迎えにいく10分間の帰り道で、明日へのエネルギーをチャージします。

 新型コロナウイルス感染防止対策は続き、ロシアのウクライナ軍事侵攻は止まらず、先行き不透明な日々が続いています。コロナ禍で、環境が変化し、適応に四苦八苦している方々もたくさんいらっしゃると思います。不穏な日々ですが、ましろさんの詩と私の短編が皆様へのエールになり、ほんの一瞬でも笑顔になっていただけたら、こんなに嬉しいことはありません。

 前回に続き、作品に短編を添えることを快諾してくださったましろさん、貴重な機会をいただき、本当にありがとうございました。

 写真は、みりこさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。


短編小説 「10分間の私」

 今朝の絵梨えりは、起こした瞬間から機嫌が悪い。私は、魔の2歳児を刺激しないよう、優しく言葉を掛けながら着替えさせる。プラスチックのベビーエプロンをつけてやり、どうにか泣かせずに食卓につかせられた。昨晩作っておいた小さなおにぎり、ゆで野菜、りんごを載せたプレートを出し、お気に入りのノラネコぐんだんのコップに温めた牛乳を注ぐ。

「絵梨ちゃん、いい子だねぇ。たくさん食べて、おばあちゃんのお家に行こうね」
えんじゃないの?」絵梨が不安そうに尋ねる。
「悪い病気が流行ってるから、園は今日もお休みなの」
 預けている保育園で、新型コロナウイルス感染者が出たので、先週から登園自粛要請が出ている。私は出勤、夫はテレワークなので、絵梨を私の実家に預けなくてはならない。
「おばあちゃんち、やっ……!」
 まだ体力のある母は容赦なく躾けをするらしく、さすがの絵梨も敵わないようだ。
「明日は園に行けるかもしれないから、今日だけ行こう、ねっ?」
 ぐずる絵梨の頭を優しく撫で、コップを持たせようとする。
「やーっ!!」
 絵梨がコップを勢いよく押し返し、温かい牛乳がびしゃっと私の服にかかる。
「どうして、そんな悪い子なの!」反射的に怒鳴りつけてしまった。
「うわあぁぁ~~~~~~~ん!!」
 1LDKのマンションに、サイレンが響き渡る。泣きたいのはこっちだと思いながら、テーブルと床にこぼれた白い液体を拭きとる。泣き止ませようと抱き上げて優しく揺するが、手足をばたばたさせ、火がついたように泣き続ける。
「朝から泣かせないでくれよ……」
 ドアが開き、夫のりつが、パジャマ姿で頭をかきむしりながら出てくる。大手旅行代理店に勤務していた律は、コロナ禍の旅行需要の激減で、通信会社に出向を命じられた。慣れない仕事でストレスが溜まっているため、連日機嫌が悪い。だが、一分一秒が惜しい今、それに構っていられない。
「悪いけど、絵梨にごはん食べさせてくれる? 私、着替えないと、間に合わないから!」
 かけていた牛乳臭いエプロンを乱暴に外し、洗濯機に放り込む。
「勘弁してくれよ。朝のコーヒーぐらい落ち着いて飲みたいんだ」
 私は朝のコーヒーどころか、ここ何年か落ち着いて朝食がとれた日はほとんどないと言い返したい衝動を抑える。
 ウォーキングクローゼットを開けて着替えを探すが、クリーニング店に出してから引き取りに行くのを忘れていたと気づき、舌打ちした。何とか格好がつく服をと思い、義妹から譲られたくすみピンクのワンピースに着替える。33歳の私には若作りかと、一度も袖を通していなかったが、気にしている暇なんてない。
 スプリングコートを羽織り、絵梨の着替えやおもちゃを入れたバッグを腕にかけ、泣きやまない絵梨を抱いて家を出る。幼児連れで満員電車に乗れないので、実家までは車だ。エレベーターで一緒になった男性に泣き声が喧しいのを謝り、地下の駐車場に向かう。泣き叫ぶ絵梨をチャイルドシートに固定し、車を発進させる。止まらない泣き声に耳を塞ぎたい思いでハンドルを握り続ける。せめて泣き止ませてから、車に乗せてやりたかったと申し訳ない気持ちで一杯になり、私まで泣きたくなる。

 朝の渋滞を計算に入れ、早めに出ているので、遅刻しない時間に到着できた。絵梨は泣き疲れたのか、ぐったりして、眠そうだ。
「ごめん、朝からギャン泣きさせちゃった。朝ごはんろくに食べてないの。機嫌悪いかもしれないけど、お願いね」
「大丈夫よ、任せて。気を付けて、いってらっしゃい」
 母の逞しさと優しさが身に染みる。実家に車を置き、引き離される絵梨の悲鳴を背中に聞きながら、断腸の思いで駅までの道を急ぐ。公園の桜が咲き始めたのがちらりと見えるが、眺めている余裕などない。

 満員電車に乗ると、ぎゅうぎゅうに押されているのに、ほっと一息つける。

 律がテレワークになると聞いた日、絵梨を寝かしつけてから夫婦で話し合った。結論は、絵梨のいる1LDKでのテレワークは難しい。
 私は、絵梨と2人で同じことを繰り返す日々から、ほんの少しでも脱出したかった。そんな時間を持てれば、絵梨を愛おしむ気持ちが増し、もっと優しくできる気がした。
 今だと思って提案した。
「私が働くよ。そうすれば絵梨を保育園に預けられるかもしれない。無理なら、実家に預ける」
 律は安堵を隠さなかった。
「悪いな。真梨子まりこが働いてくれると心強い。このままコロナが収まらなければ、俺が解雇される可能性も捨てきれない。同期のなかには、出向を契機に転職した奴もいる。俺もいずれ考えるかもしれない。だから、働いていてくれると本当に助かるよ」

 それから数日、私は絵梨を実家にあずけ、仕事探しに奔走した。大学卒業以来、総合病院で医療事務をしていた私は、その経験とスキルを生かすことに焦点をしぼった。小さな子がいるとわかると、どこも冷たかった。諦めかけたとき、病院に務めていたとき仲良くしていた医師が産婦人科クリニックを開業していたのを思い出し、ダメもとで問い合わせてみた。すると、ベテランの事務員が辞めてしまったので、すぐにでも来てほしいと言われた。自転車で送っていける距離にある保育園も決まった。
 絵梨の夜泣きで寝不足が辛く、開業医の雰囲気になれるには時間がかかった。だが、懐かしいレセコン(医事コンピューター)が使え、患者やスタッフと接する時間ができたことで、昔の自分を取り戻せて、家族に苛々することが減った。コロナ禍で絵梨を保育園に預けられなくなったのは誤算だったが、お迎えの時間を気にせずに実家に預けられるので気が楽になった。

                ★
 クリニックの更衣室前でコートを脱ぐと、くすみピンクのワンピースが顔を出す。急に恥ずかしさに襲われ、誰にも見られないうちに着替えてしまいたくなる。だが、ちょうど出てきた葉山はやま院長に見つかってしまう。
「おはよう、三井みついさん。あら、そのピンク素敵じゃない」
「あ、ありがとうございます。若作りじゃないですか?」
「全然。とてもよく似合ってるわ。自信もって」
 院長は爽やかに微笑み、白衣の裾を翻して階段を駆け上がっていく。白衣の下から、齢のわりには若作りな若草色の花柄ワンピースがのぞく。アラ還でも、着たいものを着る彼女に勇気づけられた。

山本やまもとさん、北田きたださん、おはようございます」
 更衣室に入った私は、身支度を終えていた若い2人に努めて明るく挨拶する。2人のさらさらのロングヘアと引き締まった躰に、20代の瑞々しさが溢れている。
「おはようございます、三井さん……」
 2人は私のワンピースに目を走らせ、ぎょっとしたように、目配せする。肘をつつきあい、マスクのなかで笑いを押し殺しながら更衣室を出て行く。どちらかの髪から漂ったシャンプーの芳香が鼻腔をつく。
―あそこまでされるほど、若作りだったか……。まあ、昔から老け顔って言われてるから仕方ないか。けど、あんな露骨な態度とることないのに。
 全身をめぐる不快感を鎮めながら着替えを終える。ロッカーの扉についている鏡を覗くと、走ったせいで髪がぼさぼさで、寝不足の証拠であるクマが目立つ。若い2人の隙のない身なりと比べると意気消沈してしまう。
―仕方ないじゃん。あんたたちと違って、自分にかけられる時間なんて無いに等しいんだから!

              
               ★
「あのね、この診察券に書いてもらった日付、10日か16日かわからなかったのよ。たぶん、16だと思って来たんだけど」
 70代の患者が診察券に記入された数字を指さす。
「ああ、これは10日ですね……」
「どっちかわからなかったから、来られなかったのよ。今日も、来る途中、これでいいかずっと不安だったの。あなたにはわかっても、私にはわからなかったの」
「大変申し訳ございません。本日、できるだけ早く診察を受けられるように手配いたします」
「お願いするわね。もう、こういうことがないようにしてね」
「大変申し訳ございません。記入した者にも注意しておきますので」
「そうね。私は悪いことしていないのに、心配させられて、嫌な思いをしたんだから」
「申し訳ございません。できるだけ早くお呼びしますので、お掛けになってお待ちください」

 葉山院長の診察室から患者が退室したタイミングを見計らい、事情を説明する。
「了解。すぐ松本さんをお呼びして」
「ありがとうございます。お手を煩わせてしまい申し訳ございません」
「いいよ、いいよ。あなたが迅速に対応してくれて助かった。北田さんには、よく言っといてね」
「かしこまりました」
 院長の電子カルテ入力補助についていた山本さんが眉をぴくりと動かし、私に冷たい視線を注ぐ。
 北田さんは、大学病院から派遣されてきている不妊治療専門のドクターの電子カルテ入力補助についている。昼休みに言っておこうと決め、受付業務に戻る。


「北田さん、ちょっと宜しいでしょうか?」
 私は、大学病院から来ている若いドクターと談笑しながら戻ってきた彼女に声をかける。
「何でしょう?」
 北田さんは、艶のある髪を揺らしながらカウンターの後ろに入ってくる。
「北田さんが診察券に記入した数字が読みにくくて、患者さんが来院日を間違えてしまったんです。6か0かわからなかったようなので、次回から、わかりやすく書いてくださいね」
「そんなに読みにくかったですか?」
「私たちにはそうでなくても、年輩の方には読みにくかったのかもしれませんね」
「でも、それなら、電話して確認すればいいと思いません?」
「患者さんにご迷惑をお掛けしたのですから、次から誰が見ても見間違わないように書いて下さい。また、こういうことが起こらないよう、互いに気を付けましょうね」
 反省した様子の見られない彼女にむっとし、つい棘のある言い方をしてしまう。
「かしこまりました。ご指摘ありがとうございます。このたびは、誠に申し訳ございませんでした」
 北田さんは慇懃無礼に言い放つと、「おおこわ」と言わんばかりに首をすくめ、ランチに出ていく。彼女のミスの尻拭いをしたのに、私が悪いことしたみたいだと腹の虫がおさまらない。

 近くのカフェでランチをして気持ちを切り替え、荷物を置こうと更衣室に向かう。ドアに手を掛けたとき、中から自分の名前が聞こえ、思わず手を止める。
「まじ、嫌味だった。うるさい患者さんがいて大変だけど、気をつけようねとか、こっちを気遣う一言があれば違ったのに。おばさんって、そういう心遣いできないのかな」
「まあ、仕事に家庭に大変だから、苛々がたまってるんじゃない? お肌かさかさ、髪ぱさぱさ、ぼさぼさだし」
「言えてる。ああはなりたくないって感じ? 私、あそこまでして、働きたくないな。だから、高収入のドクターと結婚して優雅に暮らしたい」
「私だってそうだよ。北田ちゃん、いつも鎌田先生のカルテ入力についてるけど、Line交換したの?」
「ばっちり。結花ゆかは水曜の関口先生とデートの約束したんでしょ?」
「うん。今日あたり、服買いに行こうかな」
「服って言えばさ、今日の三井さんのワンピース、何あれ、痛すぎ」
「わかる~。なんか怖いもの見ちゃったって感じ」

 ドアを勢いよく開け、「数字もまともに書けない奴に言われたくねーんだよ!!」と言ってやりたい衝動を凄まじい努力で抑える。何も聞かなかったと言わんばかりにドアを開け、「お疲れ様です」とやわらかい笑顔を見せると、ロッカーにバッグを入れて更衣室を出る。
                
        
                ★

―苛々がたまった一日だったな……。

 クリニックを出て、駅に向かう道を歩きながら、マスクの中で大きくため息をつく。駅に向かう人の流れを眺めながら歩いていると、洗練された服装で闊歩する女性が目にとびこんでくる。

 若い2人の言動を思い出すと、腸が煮えくり返りそうになる。でも、育児や家事を言い訳にして、自分を大切にする時間をつくろうとしなかったのは本当のことだ。

 吸い込まれるように、駅ビルに入った。流行の最先端のファッションはどんなだろうと思いながら、ブティックが並ぶフロアを通り抜ける。出産で崩れた体型を戻して、あんなの着てみたいなという気持ちにしてくれる服がたくさん目につく。
 エスカレーターでコスメのフロアに上がると、ロクシタンの前に、店員に説明を受けながら、サンプルを試している人が目に入る。お洒落なデザインのハンドクリームやボディクリームを見ると、心が華やいでいく。
 一番人が集まっているのは、桜の香りの限定商品の前だ。桜の季節だなと思いながら、なんとなく近づくと、店員が声を掛けてくれる。
「新商品のサクラサボン、お試しいかがですか?」
「紺とピンクで可愛いデザインですね。どんな香りですか?」
「サボンとチェリーの清らかな香りです。夜の澄んだ空気に触れて、星の輝きを浴びた桜が開きだすイメージです」
―そういえば、公園の桜が咲き始めてたな。朝は見る暇がなかったから、帰りくらい眺めてみようかな。
「じゃ、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです」 
 店員は、四角いシートにオードトワレを吹きつけてくれる。マスクをずらして鼻だけ出し、シートを近づける。
「すごくいい匂いです!」
―チェリーの甘さと石鹸のフレッシュさが絶妙のバランス。これなら、少し香っても大丈夫そうだ。
「ありがとうございます。オードトワレの匂いが強すぎるようでしたら、モイスチャーミストもあります。いろいろありますので、ぜひお試しください」
「ありがとうございます!」
 くすみピンクのワンピースを着てきたことを思い出し、胸元と袖口にテスターのオードトワレを吹きつけてみる。マスクの中からでも、甘すぎず、清らかで凛とした香りがかすかに感じられる。
―少し高いから、お給料日まで待ってから買いにこようかな。
 ほんの少し上向いた気持ちで帰宅ラッシュの電車に乗るために改札をくぐる。

                 ★
 はき出されるように満員電車を降り、新鮮な空気をマスクの中で貪ると、酸欠状態が緩和されていく。駅を出ると、前髪に当たる春の夜風が気持ちよく、思わずコートを脱いでしまった。

 実家までは一本道だ。両側は住宅地で人々の生活の息吹が感じられる。朝は戦場に向かう気分で歩き通す10分ほどの道のりだが、帰り道は心も身体も開放されている。この10分間で気持ちを切り替え、私を取り戻すのだ。

 人通りがないので、マスクを外す。澄んだ空気が気持ちよく、肺を洗濯するように深呼吸すると、どこかのお宅から白檀の香りが流れてくる。ささくれ立っていた心が凪いでいく。

 自然と視線が上向き、澄み渡った夜空に瞬く星が目に入る。いつも見守っていてくれているのに、この時間しか目に見えないんだなと愛おしさがこみ上げてくる。公園の電灯の下を通るとき、一瞬だけ視界を遮られる。電灯の向こうには夜桜。

「三井真梨子、本日も頑張ってまいりました!」
 思わず右手を添えて敬礼してしまった。我ながら芝居がかっていたなと苦笑いし、誰もいなかったかと周囲を見回す。

―まあ、いいじゃない。気分爽快なんだから。

 舞い落ちてきた薄ピンクの花弁を掌で受け止めると、自然に笑顔がこぼれる。

 鼻歌を歌いながら、くるりと回ると、ワンピースの裾がふわりと広がり、サクラサボンが優しく香る。

 全身に優しいエネルギーが満ち、こころがふわっと軽くなる。

 絵梨と律の笑顔が脳裡に浮かぶ。今、無性に2人に会いたい。
 
 絵梨を車に乗せて帰ったら、夕食の支度をして食べさせ、お風呂に入れて寝かしつけなくてはならない。

 まだ夜は長い。日常は際限なく繰り返される。それでも私は幸せだ。

(完)